大久保利通は、西郷隆盛や木戸孝允(桂小五郎)と並び、明治維新に多大な功績のあった「維新の三傑」の一人である。
ただし、リアリズムに徹した冷酷な独裁者と目され、一般的評価はいま一つだった。
『大久保利通「知」を結ぶ指導者』(瀧井一博、新潮選書)は、大久保の足跡の詳細な検証から、そのような定説を覆し、帯文によれば「大久保論の決定版」と高い評価を受けた注目の一冊だ(第76回毎日出版文化賞受賞)。
「執筆の直接の契機というのは何でしょう?」
「この前に、立憲制度や議会制を樹立した“知の政治家”として伊藤博文の本を書きましてね。その時、伊藤が誰の影響を受けたか調べたら、同じ長州の木戸は当然ですが、それ以上に薩摩の大久保だろう、と。伊藤が薫陶を受け、思想的・政策的に最大の影響を受けたのは大久保利通。伊藤は大久保イズムを継承した。そう確信したので、次は大久保に焦点を当ててみようと考えました」
大久保は1830(文政13)年、薩摩の下級藩士の家に生まれた。3歳年上の西郷とは近所同士で育ち、竹馬の友であった。
弾力的に運用された身分制度
そんな大久保が、藩主後見役・島津久光の大抜擢で藩政の表舞台に登場したのは1861(文久元)年、31歳の時だった。
「薩摩藩には誠忠組なる政治結社があり、そこでは会読(
「徳川時代は、血縁よりも家の存続。そのため養子縁組や御家人株の売買などあり、身分制はかなり弾力的に運用されました。薩摩藩ではそうした才能重視の流れが高まり、幕末に閾値を超えたのです。もちろん、大久保本人が、特別に才気煥発だったのですが」
もっとも大久保自身は、当初は急進的な尊皇攘夷派だった。血気にはやる大久保たち若者をなだめたのが、行動の前提として「名分」と「理(道理)」を説く久光だった。瀧井さんは、「久光が“理の種”を蒔いた」と記す。
その後の大久保は久光の手足となり、京都や江戸における藩の政治工作に東奔西走する。第2次長州征討などを巡り最後の将軍になった徳川慶喜と鋭く対立しながら、幕末の王政復古クーデターにも深く関わった。
東京遷都の狙い
1868(慶応4、明治元)年の区切りの年には、明治改元に先立って東京遷都に大きな役割を果たす。
「東京遷都は、狭い京都より広い東京の方が新国家の首都に相応しいから、と単純に思っていましたが、本書によると、大久保は東京遷都によって旧式の朝廷から天皇を切り離し、新しい天皇像を創出しようとした?」
「そうです。狙いはそちらの方が大きい可能性もある。多くの公家や女官らに囲まれた京都の朝廷は祭祀中心の天皇制で因循姑息。そのしがらみを一掃し、新しい天皇像への脱皮の道を拓くには首都移転が一番でした」
幕末に諸藩に宣布された王政復古の大号令では、(今後)「神武創業の始まりに基づき」公議に則って政治を行う、と謳われた。
瀧井さんによれば、神武創業云々は古代への復古ではなく、創造的破壊に基づく新しい国家、新しい天皇、新しい国民をそれぞれゼロから創り出す決意表明だったという。
「一国万民の新しい国の天皇は、玉簾(たますだれ)の奥に隠れるのではなく、西洋の君主と同様、表に出て国民と共に歩んでもらう必要があったのです」