明治維新は「共和制」革命
瀧井さんは、明治維新を「共和制」革命と見る。独立国家、立憲国家、国民国家を生んだ革命であり、その土台を築いたのが大久保だ、と。確かに1871(明治4)年の廃藩置県は封建制国家と訣別する一大改革であり、同年の岩倉具視、大久後、木戸ら新政府首脳がこぞって長期の欧米視察に加わった岩倉使節団は、世界にも例を見ない実験的試みだった。
「大久保は新政府発足早々の対外戦争も防止していますね。征韓論政争では対朝鮮の戦争、台湾出兵では対清国との戦争を防止した?」
1873(明治6)年、使節団不在の時、西郷ら留守政府は朝鮮の排日的鎖国主義を理由に征韓論を主張。だが、大久保や岩倉ら帰国した使節団派は対策を講じて挫折させた。
翌年、台湾漂着の琉球人らを現地人が殺害し日本軍が出兵・討伐する事件が発生。事後処理のため大久保は全権大使として清国へ。粘りの交渉で開戦を防ぎ、しかも日本軍の行為を「義挙」と認めさせ報償金まで得たのだ。
「大久保は岩倉使節団でイギリス文明に打ちのめされ、プロシアのビスマルクとの会談で息を吹き返し武断派のドイツ主義者になった、とよく言われますが、それは違いますね。むしろ、国際社会で生きて行くには武力よりも宥和力、敵とも妥協し可能なら味方にすべきだ、と学んだと思います。台湾出兵での北京談判は、そんな国際協調外交の具体例と言えます」
しかし、大久保の冷酷・独裁の評判を決定付けたのは恩義ある人々への仮借ない処断だった。急激な開明路線に反対し続けた鹿児島の久光を切り捨て、かつての盟友江藤新平や西郷が決起した時には、容赦なく鎮圧した。
「佐賀の乱の江藤が処刑された時は”醜体“と嘲笑し、西郷が西南戦争で絶命した時は、”西郷の首のみ見当たらず。探索中なり“ときわめて事務的に記述をしていますが?」
「江藤に従った10代の少年らは潔く散った。それに比べ指導者の江藤は一人で逃げ、捕縛後も弁明にこれ務めた。それを“醜体”、見苦しいと言っています。大久保は“理”によって政治を行う指導者の論理やモラルには、自他を問わず厳しく、それが彼の真骨頂でした」
幕末に大久保が倒幕を決意したのも、攘夷で決起した天狗党の乱の参加者への幕府側の余りに非人間的な処遇と厳罰だった。「理」を重んじない幕府を「もはや為政者として不適格」と断定したのだ。
「西郷には、最後まで信頼を失わなかったと思います。でも不平士族に突き上げられ、担ぎ出されて、あの西郷でさえ抑えきれずに暴発した。感情を交えず西郷のことを記述したのは、おそらくその無念さのせいでしょう」
ネルソン・マンデラ“羊飼いとしての指導者”
そして大久保は、自身の殖産興業政策の集大成とも言える内国勧業博覧会を上野公園で開催した次の年、1878(明治11)年5月に不平士族らによって暗殺された。享年47。
「大久保は志半ばで没した?」
「暗殺当日の朝、明治の最初の10年は創業期、重要なのは次の10年、と大久保は語っています」
大日本帝国憲法の発布は、没後11年の1889(明治22)年2月のことだ。
「彼のリーダーシップを瀧井さんは、南ア共和国のネルソン・マンデラの“羊飼いとしての指導者”になぞらえてますね。羊飼いは羊の群れの後ろにいるけど、全体の動きを制御する?」
「で、必要とあれば先頭に立つ。内務省の創設がそうですが、独裁でも丸投げでもない。日本全国から優れた人材を集め、多様な意見を出させ、それを大久保というフィルターにかけて抽出し、勧業や内治の政策に反映させた。大久保はそういうタイプのリーダーでした」
本書を読むと、大久保だけでなく、明治維新に対する見方自体も以前とは大きく変わってくる。