本書の帯文に、「最前線は“南”にあり。香港・台湾問題の源流」とある。
つまり、今の中国を理解するには華南(南中国)の歴史を振り返る必要がある。多動性・流動性に溢れた近代300年の華南の姿から中国社会を考察してみよう、というのだ。
「いわば、南中国研究の集大成と呼ぶべき一冊?」
「集大成は大仰ですが、勤務先の大学で20年以上講義してきたことを、一応まとめておこうと思ったんです。その根底にはもちろん、1980年代に広西チワン族自治区に留学した時の驚きがあります」
と、著者の菊池秀明さんは話す。中国には漢民族以外に55の少数民族がいるが、広西では身近に各地からの移住民やチワン族、ミャオ族など多様な人々がいた。彼らは標準語と異なる言語を話し、その気質や文化も中国北部の人々とはまるで違っていた。
「南中国は日本人にとっても親しいですね。何といっても稲作の故郷。北の主食は小麦ですが、南はもっぱら米。日本の稲作の渡来地で、高床式の木造家屋も南の由来ですね。あと本書にある歌垣や、鵜飼いも南から?」
「木造住居の影響は大きいですね。日本に来た漢人留学生が、“いつ壊れるか、最初怖くて眠れなかった”と言っていました。北中国はレンガ造りの家が普通ですからね」
「華南の言語と日本語は、発音も似ていますね。客家語で“日本人”は、“ニップンニン”と発音する?」
「北の王朝政府は北方遊牧民による影響を受けているので現在の標準語になりました。それに比べ、3世紀から10世紀と早い時期に北から南下してきた漢人の言語は、古い中国語の特徴を残しています。極東の日本に渡ってきた言葉も古代の中国語ですね」
ところで華南の範囲だが、本書では沿岸部の江西、福建、広東と広西チワン自治区を指し、内陸部は含まない。
内陸の四川、湖南、貴州、雲南などの各省は、菊池さんによれば、移植した人々の出身地や時期、経路などが違い、「北方方言の強い言語を話す地域」である由。
「華南も区分すれば、閩南(びんなん)語、福建語、広東語、客家語に分けられます。世界のチャイナタウンに代表される華人世界を含めて考えると、
元はチワン族などの先住民が住んでいた華南だが、そこに漢人が北から南下して移住。そして移住した広東、福建の住民がさらに江西や広西へと越境し、隠棲していた先住民や清朝政府派遣の官吏・軍人などと三つ巴、四つ巴の激しい生存競争を繰り広げたのだ。
華南の人々が頻繁に越境する理由
それが激動の近代300年(清朝は1616~1912年)の華南だった。
「華南の人々が頻繁に越境するのは、山がちで耕地が少なかったことと、18世紀頃から人口が急増し始めたせいですか?」
「それと、抵抗の手段としてですね。清朝政府は下層移民の越境を当初容認したのですが、徴税のためには定着農耕民が望ましい。そこで移動を禁止します。すると庶民は圧政から逃れるためにも越境を繰り返す」
「上に政策あれば下に対策あり」の反骨精神は、華北より華南の方が強かったのだ。
「ただ、越境先で成功者を目指し、科挙(官吏登用試験)を利用しようとした者らは、宗族(男系血縁集団)を結成しますよね?」
「ええ。グループ内で一人でも科挙に合格すれば皆が恩恵を受けるので一族で応援しました。この宗族という組織も、本来は中国全土に古来からあったのですが、東北部や内陸部では余り利用されませんでした。越境する華南の人々がもっとも活用し、おかげで海外進出した時も大いに役立ったのです」
福建出身の閩南人は台湾やシンガポール、フィリピン、インドネシアへと拡散した。広東の潮州人はタイへ。広州を中心とした広東人は東南アジア各地やアメリカへ。そして華南各地に散らばる客家人は、東南アジアの各地の他に台湾へと渡って行った。
かくして、世界各地にチャイナタウンが形成された(日本の横浜中華街などはアメリカと同様に広東の出身者が主流だった)。
「一族や同郷者を頼った越境以外に、契約移民や強制的な苦力貿易もありますが、総じて華南から果敢な海外進出が行われたのは、彼らにもともと中国版フロンティアスピリットと呼べる習性があったせいです」
「近代の政治変革も華南から始まったんですね。太平天国の乱(1851~64年)とか、孫文の辛亥革命(1911年)とか?」
「そうです。双方とも清朝打倒を掲げました。広西でキリスト教的平等主義を唱え挙兵した太平天国の洪秀全は客家人でした。中華民国樹立につながる辛亥革命を主導した孫文は広東人。太平天国は失敗し、