こうして、1905年には瀬戸内海で投身自殺を企て「未遂に終わった」後、早稲田大学英文科、拓殖大学といっそうデスペレートに遍歴しながら、遂に09年7月、「満州へ行って野垂死にしよう」、「死ぬなら満州に限る」と「飄然渡満した」。
ニートから超国家主義者へ
これは明治末期の「煩悶青年」そのままの行路である。そして、満州で大陸浪人的な生活をした後、帰国するところなどは拙著に明らかにした朝日の人生行路に極めて近い。
そして、日蓮宗の修行に没頭し、昭和初頭の世界恐慌の危機の中、遂に日本の国家改造運動の中心的リーダーの一人になっていく。海軍の青年将校や北一輝と知り合い、10月事件に関係し血盟団の盟主になっていくのである。明治末のニートが昭和前期の超国家主義者だった。
日召の書き方は非常に率直で、例えば権藤成卿のように五・一五事件の青年将校らから1つの思想的リーダーとされたような人に対してもかなり辛辣なことを書いている。また、刑務所ではアナーキストや共産主義者などと接触を持ち、著名なアナーキスト朴烈からは接近され、いつも慰める係で、役人たちには、君たちは慈悲が足りないと、説教していたという。
出獄後、近衛文麿と親しくなり、結局近衛の家に居住することになる。その関係から見た東條英機・松岡洋右などの人間像も興味深いが、最後に、近衛文麿に初めて会った日のことを書いておこう。午後5時に会い、二人で夜の11時過ぎまで話し合ったという。
日召が「公爵、貴方は二重人格者ですね」というと、近衛は一瞬不味い顔をして、「それは何故ですか?」ときいた。そこで日召は、「貴方は、京大学生時代から河上肇などの社会主義理論を植え付けられておられるので、今日までも理智的には社会主義を肯定する傾向がおありでしょう。かと思うと、一方では先祖の天児屋命(アメノコヤネノミコト)以来伝承して、貴方の血液の中に脈打っている日本的な魂の直感する非社会主義的な傾向もある。つまり、貴方は理智と直感の分裂で、事ごとにフラフラ迷っておられる。それを私は二重人格だと言うのですよ」と説明すると、公爵は顔色を直して、「井上さん、私は実はそうなんです。それで困っているんです」と淡白に認めたという。
近衛の「分裂」状態をずばりと指摘し認めさせるあたり、苦悩と絶望の青春期を経た日召ならではだが、この「二重人格」性というのは、日召自身が経験したことゆえ、思い当たることもあったのであろう。首相がこれでは日本は迷走するしかなく、極端な人物に乗じられやすかったのであろうが、多かれ少なかれそれは当時の多くの日本人全体の意識でもあったのではないか。
結局、明治末期のニートの煩悶が解決を見ぬままに大正時代に顕在化し、昭和前期にまで持ち越されたのだともいえよう。昨今の暗殺事件と政治家の迷走を見ると、それは今日まで持ち越されていると見るべきなのかもしれない。