2024年5月9日(木)

ヒットメーカーの舞台裏

2013年12月23日

幾多のトライ&エラー 支えた切磋琢磨の友情

 開発のきっかけは06年に遡る。この年、大学進学で上京、単身生活に入った金田は下宿に戻るたび、寂しい思いをしていた。当たり前だが、人の気配はなく、明かりも音もない部屋。「心が安らぐはずの場所なのに」と、落ち込んでいた金田だが、入学から半年ほどして一計を案じた。帰宅直前に、テレビやオーディオのスイッチを入れ、人の声や音楽が自分を迎える仕掛けだ。幼少時から工作や機械いじりが好きだったので、そう難しくはなかった。携帯電話はスマホ登場以前だったので、いわゆる「ガラケー」を使った。ネットを介して操作するという基本のところはPlutoステーションと同じだった。

 そのうちテレビなどに飽き足らず、操作の対象は家電全般に広がった。何と、リモコンのない洗濯機や炊飯器も分解し、回路基板に自分で設計・制作した制御回路をハンダ付けし、遠隔起動を成功させた。

 こうした経験が起業へと具体性を帯びていったのは前述のように金田が市東と出会った10年であり、「携帯はスマホが登場、ネット通信も飛躍的に高速化が進んだ」(金田)ことで、実用性の高い商品化への目算が立ったという。ただし、趣味で自分の家電を操作するのではなく商品として世に送り出すハードルは高かった。

 通信分野が得意な市東は、リモコンを片っ端から収集して信号の解析を進めた。あらゆるメーカーの家電に対応し、ステーションから信号を飛ばすという基本的な機能を満たすためだ。家電量販店でリモコンのみを買ったり、あるいは友人から借りたりしてデータを蓄積していった。チェックしたリモコンの種類は、3ケタにのぼったという。

 一方で金田は、ひとつの部屋の隅々まで赤外線による信号を飛ばすため、マンションや戸建て住宅の間取り図のバリエーションを収集し、発信機能の研究を進めた。2人で取り組む気の遠くなるような作業は、気がつけば信頼関係を育むプロセスとなっていた。金田は「市東さんの気概が、商品を開発するうえで何よりの励みになった」と振り返る。

 もっとも、事業の推進には想定外の事態が付きものだ。たとえば量産に入るタイミングで、為替レートが円高から円安に振れ、海外から調達していた資材のコスト上昇に見舞われた。製造業にとって「調達業務がいかに重要か」を学ぶ機会ともなった。


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