で、後日談その2。
「しのくん(息子のこと)、卒業式後に先生(例の体罰センコー)から体育館の裏に連れだされて殴られたんだってね!」と、息子と同年の女の子のお母さんから聞かされました。
「コノヤロー! まだやってんのか!」と瞬間に腹が立ちましたが、息子に確認してからと思い息子に訊きました。
「やられてないよ、僕知らない」とのこと。
私は単なる噂かなと思いなおしました。
成人して3人のお父さんになった長男が保育園の運動会で子どもと競技。2012年
ところがずいぶんあとになり成人した息子との雑談から真相を知りました。
「じつはあのときセンコーに殴られたんだ。おとんにチクッタから恥をかかされたって。でもおとんにいうと何するかわからないでしょ。だから『やられてない』っていったの」と息子。
私は真相にいきり立ちましたが、父に対しての当時の息子の想いを知り、また成長した様子からもとてもうれしく思いました。
親の常識「学校信仰=学校の絶対化」
さて、当時をふり返ると、あのころの私は、親なのに学校や先生に遠慮をしていうべきことをいわないことや、親がなすべきことなのに、学校や先生任せや頼ることが多すぎはしないかなどの親側に長年つちかわれて常識のようになってしまった「学校信仰=学校の絶対化」の姿勢が気になっていました。
先生と親は、本来上下のものではなく対等であるべきです。それがどうも目には見えない上下の関係があるかのように思えてしかたがありませんでした。
親は子どもの面倒を「産んだ責任者」としてどんなことがあっても一生みる存在であり(もちろん成人すれば法的な義務はありませんが)、先生は担任であっても3年がいいところ。ですからおのずと責任の重さは決まっています。