黄禍論の再来もあり得る
大谷選手に見る希望
とはいえ、ただ存在感が増せば万事解決というわけでもない。米国には、アジア人がまとまって欧米に敵対するという「黄禍論」が19世紀から存在する。アジア人は物言わぬ不気味な他者であり、信用できないという見方である。実際、日露戦争直後には日本と中国が連帯して米国に襲い掛かってくるという論が盛んであったし、それは戦後日本が友好国となったのちも変わっていない。
2009年、当時の鳩山由紀夫民主党党首が、政権交代によって首相に就任する直前に公にした「東アジア共同体」構想が示唆した、米国抜きで日本がアジア、特に中国と結びつくという可能性に対して、米国は激怒し、日本政府は釈明に追われた。日中が結びついて米国に敵対してくる可能性を本気で考えている米国人は100年前から今日に至るまで存在し続けているのである。
米国社会における日本人の存在感を増さねばならない一方で、存在感が増せば黄禍論的な警戒感も高まり、日本脅威論的見方も出て来るというと、八方塞がりのようである。
一筋縄ではいかない課題だが、ドジャースの大谷翔平選手に希望的未来像をみることができる。力や大きさを貴ぶ米国人にとってわかりやすいスーパースターである彼は、貴重な存在だ。また大谷選手は勤勉の美徳を通じて日本人に対する共感を醸成し、よきチームメイトの一人として尊敬を集めている。
だが、日本のメディアはチームメイトなどにしつこく「大谷をどう思うか?」といった質問ばかりをし続けている。はじめは素直に「大谷は素晴らしい」と答えてくれていた彼らもだんだんと疎ましく思うのではないだろうか。日本のマスコミが疎まれるだけならまだよいが、大谷選手が疎まれるような存在にならないか、筆者は心配でならない。日本人としてやるべきことは、大谷選手のような日本人の「顔」となっている日本人が、活躍できる環境を整え、一人でも多くの米国人、米国社会に、日本への関心や共感をもたらすようにしていくことではないだろうか。
大統領選挙を控え、米国の行方は予断を許さない。仮にトランプ氏が当選した場合、米国がかつてのように排外主義の方向に走る可能性もある。そうした困難な状況の中にあっても、物言わぬ不気味な他者ではなく、より良い世界市民としての日本人の「顔」を見せていく必要がある。そのために日本人は今後、米国社会で何をしていくべきなのか、今こそ、真剣な議論と国家としての行動が求められている。