「パンが好きだからパン屋さんになりたい、みたいなものです」
そこに世界を回るピアニストになるという具体性が加わったのは、小学校6年の時に参加したヤマハ音楽教室の台湾公演だった。
「言葉が通じなくてただニコニコしているしかなかった人たちと、音では繋がれるって感じられたんです。気持ちが高まって、立ち上がったり、歓声が沸いたり、拍手してくれたり、何か分かち合えてるっていう実感が確かにあった。お互いの細胞が響き合ってるっていうのかな。その時、こういうことをずっとやっていきたいなあって思ったんです」
12歳で望んだ将来の自分の姿が、今まさに12歳が想像し得たスケールをはるかに飛び越えて実現しているということになる。
しかし、明確な将来の希望をもちながら、なぜか上原は音楽系の学校には進んでいない。受験もしていない。地元の普通高校に通い、大学も法政大学を選んでいる。
「音楽をやっていない友人から教わることがとても大きかったんです。音楽に対する価値観が好きか嫌いかしかない、すごくシンプルだけれど冷徹な判断基準に囲まれているというのが、自分にとって音楽的な栄養になっていた。音楽って音楽から生まれるものじゃなくて、いろいろな経験から生まれるとしたら、普通の学校に行こうかなって思った。音楽は食べ物に似てると思うんですよね。おいしいかおいしくないか。好みか好みじゃないか。おいしいと思っても、もう一度食べたいと思うかどうか。その時の体調や気分で同じものを食べても感じ方は違うかもしれないし」
日々を生きる人はあくまでナマモノであり、時々の喜怒哀楽や体の調子や気分のありように翻弄されながら食べ物も音楽も求める。これはすばらしい味なのだからとわからない者を排斥するのではなく、おいしさを共有できる心のグルーヴ感を求めていく。それは、細胞で聴衆と響き合う体験をした上原の、深い部分に繋がる姿勢なのだろう。
いつでも全力投球
どこに身を置いても、あふれる才能は強烈な光を放ち、人を惹きつける。浜松北高校に通う17歳の時、ピアノのレッスンのために東京に来ていた上原は、来日中のチック・コリアがヤマハにリハーサルに来ていると聞いて、見学に行った。するとリハーサル室に入って弾いてみなさいと言われ、弾いてみたら翌日のチックのコンサートで1曲弾くことになった。高校生なら舞い上がるか固まるか。