自民党総裁選で、国民世論をより強く反映する党員票の方が、国会議員票よりも正しく国家のリーダーを選べるという論調があるようだ。しかし、元衆院議員で実業家の杉村太蔵氏は、あるテレビ番組で、「ずーっと四六時中、365日一緒に仕事して、議論している人(の判断の方が信頼できる)」と言った。また、スタジオの面々に向かって「皆さんだってそうでしょう? テレビで見てるタレントさんと、実際お付き合いしてるタレントさんで、ちょっと(人気の)“票数”が違う時あるでしょう?」と言った(「杉村太蔵さん、総裁選、期待の集まる石破茂氏に「推薦人の20人『あなたを総理にしたい』って人が集まっていない」中日スポーツ、2024年8月17日)。
ずっと一緒にいて議論している人の方が、正しくリーダーを選ぶことができるとは、18世紀の英国の偉大な政治哲学者ディヴィッド・ヒュームも指摘していることだ。ヒュームは、概略、「普通の人々は、自分たちとあまりかけ離れていない人間については有能な目利きです。ですから、小さな選挙区では、おそらく最良に近い代表者を選ぶでしょう。しかし、国のより高級な地位の選挙に関しては、彼らは全然、不適任です。高官たちは普通の人々の無知に付け込んで、彼らをだますことができます」と書いている(ヒューム『市民の国について(上)』197頁、岩波文庫、1982年)。ここで高官たちと言っているのは首相、大臣たちのことなので、一般国民は国会議員を選んで、国会議員が首相を選んだ方が良い、そうしないと、一般国民が騙されてしまう、と言っていることになる。
メディアが、国民投票に近い形で選ぶべきというのは、国会議員が選べば、国会議員が首相候補者に、金や利権や人事の分配で買収されてしまうから、ということなのだろう。しかし、国会議員が買収されるにしても、より日本のリーダーに相応しい人に買収される方が良いと思うのではないだろうか。