2024年12月29日(日)

スポーツ名著から読む現代史

2024年12月28日

 オーナー会議から一夜明けた7月8日のことである。渡辺自身がいきさつを『文芸春秋』(2004年12月号)に「独占手記〝世紀の悪者〟にも言わせてくれ――プロ野球ストの争点を衝く」に書いているので引用する。

 <2004年7月8日夜、私は都内のパレスホテルのレストランで、読売の役員と一緒にかなり飲んでから、ホテル玄関で、恒例のことだが十数人の記者団に囲まれた。そこで「たかが選手」失言が飛び出したのである。その夜のパレスホテル玄関前での状況を、記者団の録音や取材記録に従って再現すると、次のようになる。

 日刊スポーツ・S記者「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」

 渡辺「無礼なことをいうな。分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話をする協約上の根拠は一つもない」>

 渡辺自身が「失言」と書いているから、まずいことをいってしまったという思いは発言直後に感じていたのだろう。あわてて「たかが選手だって立派な選手もいる」とフォローしても後の祭り。民放テレビ1社が一部始終を撮影しており、弁明の余地もなかった。

 渡辺に質問をぶつけた日刊スポーツの巨人担当、沢畠功二は30行ほどの記事を書いた。「渡辺オーナー暴言」の見出しのついた記事は翌日の5面に掲載された。一般紙を含め反響は大きく、「たかが選手が」の発言が独り歩きし、それまでファン不在で進められた球界再編問題の推移に大きな影響を及ぼしていく。

 筆者は翌9日付の毎日新聞社説で「『よらば巨人』に明日はあるか」という見出しで、選手やファンを置き去りにして球界の縮小に突き進むオーナーたちに苦言を呈した。「巨大な影響力を持つ金持ち球団が自分の都合のいいように制度を改変し、他球団のスター選手をかき集めながら思ったような成績が残せず、テレビ視聴率の低迷を招いている。もう一度、球界全体の繁栄という視点から選手やファンの納得する制度改革を進めるべきではないか」というのが趣旨である。

 「たかが選手が」の失言は、普段プロ野球に関心を持たない人にも球界再編問題を広める効果があった。労働組合・日本プロ野球選手会(ヤクルト・古田敦也会長)は98%の高率でスト権を確立、伝家の宝刀であるストライキの行使を真剣に検討するようになった。

一場問題が追い打ち

 そんなさなかに巨人の不祥事が明らかになった。秋のドラフト会議で獲得を目指していた明治大学の一場靖弘投手に総額200万円の食事代や小遣いを「栄養費」などとして手渡していたことが明るみに出た。世の中はお盆休みに入った8月13日のことだ。

 ドラフト候補にどんな便宜を図っていたか、球団オーナーが細かく承知していたかどうかはわからないが、軽井沢でゴルフをしていた渡辺は即座に巨人としての対応を打ち出す。まず、問題となった一場投手の獲得を断念したうえで球団の会長、社長、代表の3人を解任。さらに自身もオーナーを辞すると発表した。渡辺は前出の手記の中で、こう説明している。

 <私はクラブ片手に芝生を歩きながら、一場投手獲得の断念と、関係者を処分するという孤独な決断をした。仮借なく不正を追及してきた新聞の主筆として、自社の醜聞となったこの「栄養費」なるものは、金銭の多寡ではなく、責任者処分以外に思案の余地はなかった>

 アマチュア選手への200万円の不正支出というルール違反を、オーナーを含む球団トップの総退陣に結びつけるのは、いささかつり合いに欠ける印象はぬぐえない。筆者には、「たかが」発言で自分に向いた世論の逆風から一時避難するため、一場問題を利用したようにも思われた。

急速にしぼむ再編論議

 オーナー会議議長として、球界再編の動きを主導する立場だった渡辺の突然の退場で、オーナー会議は実質的な思考停止状態に陥る。堤の言う「もう一つの合併」も進展しないまま9月を迎え、9月8日に開かれたオーナー会議は近鉄・オリックスの合併を正式承認し、05年のシーズンを「セ6球団、パ5球団」で開幕することを決めた。その間に新興IT企業のライブドア、楽天の2社が球界参入に名乗りを上げていた。

 9月10日午後5時を最終期限にスト突入を通告していた選手会は、11、12日に予定していた第1波ストこそ直前に回避したが、新たな進展がなかったため18、19日にストを決行。ベナントレース大詰めを迎えた公式戦が中止に追い込まれた。日本のプロ野球史上初めてのことだった。


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