2024年12月7日(土)

スポーツ名著から読む現代史

2024年3月1日

 サッカー・Jリーグの2024年シーズンが開幕した。1993年に旗揚げしてから32年目のシーズンである。この間、日本サッカーは大きく変貌を遂げた。

32年目のJリーグ開会を宣言する〝生みの親〟川淵三郎氏(松尾/アフロスポーツ)

 悲願だったワールドカップ(W杯)出場が実現し、韓国との共催でW杯の会場にもなり、W杯常連国の仲間入りを果たした。日本代表選手の大半はJリーグを飛び出し、欧州の強豪チームに所属する選手で占められるようになった。

 日本のスポーツ史のうえでも画期的な足跡を残してきたJリーグ。その生みの親である元日本サッカー協会会長、川淵三郎がJリーグの発足からバスケットボール協会の改革にいたるまで、日本スポーツ界に刻んできた足跡を回顧したのが今回紹介する『キャプテン!』(ベースボール・マガジン社)だ。組織のトップとして、自身の役職を「チェアマン」「キャプテン」と命名するなど、既成概念を次々と打ち破ってきた。

 1993年5月15日、旧国立競技場でのオープニングセレモニーで、川淵は「サッカー」の言葉を使わず、「スポーツを愛する多くのファンの皆さま」に向けてJリーグの開会を宣言した。川淵はその後、サッカー界にとどまらず、バスケットボールの教会内対立解消に尽力し、2021年の東京五輪では選手村村長として世界中のアスリートを迎えるなど日本スポーツ全般に大きな足跡を刻んできた。川淵自身が「これが最後の著作になると思う」と振り返る『キャプテン!』を通じて日本スポーツの現代史をたどってみたい。

始まりは2DKの「秘密基地」

 川淵は1936年、大阪生まれ。府立三国丘高校でサッカーを始め、早稲田大学在学時に日本代表へ選出され、サッカーの名門・古河電機工業に入社、64年の東京五輪に日本代表として出場した。その後古河電工に籍を置く傍ら、日本サッカー協会の強化部長、日本代表監督代行などをつとめ、サッカー界との関係をつないできた。

 日本サッカーは68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得したものの、その後は低迷。アジアの中でも埋没するようになり、国内のサッカー関係者の間から「プロ化」を求める声が高まった。

 プロ化を実現するため、協会内に「プロリーグ準備検討委員会」を立ち上げたのは89年6月のことだ。前の年に古河電工名古屋支店の部長から子会社役員へ出向となり、この人事を「左遷」と受け止めた川淵は、準備室の室長に就任。サッカーへの情熱をフルに発揮する場を得た。

 事務所は東京千代田区九段のマンションの2DKの一室。職員は室長を含め4人で、電話を1本引いただけの簡素な事務所だった。ひっそりとした船出ではあったが、初めて拠点を与えられた喜びと、決意を高めるきっかけになったようだ。

 <小さな秘密基地には、4人と、プロ化を目指して力を集結しようとした関係者の皆さんで、Jリーグの根幹をなす組織のあり方、ルール設定、重要な言葉、理念を議論し、考え抜いた、懐かしい思いが詰まっていました>(同書42頁)

 川淵が「組織のあり方」などと並んで「重要な言葉」を列挙しているように、新しい組織は一つ一つの用語にまで神経を使っている。<理事長や野球で使われているコミッショナーではなくチェアマン、プロ野球で使われていたフランチャイズではなくホームタウン、91年11月に発表したプロリーグの名称も、当時の文部省には、スポーツでは野球が機構、と漢字を使っている、プロサッカーリーグと全てがカタカナ表記の社団は前例がない、と反対されてのスタートでした>(43頁)


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