交通費前借りで始まった「なでしこ」強化
女子サッカーの躍進も川淵の功績の一つ言っていいだろう。川淵が日本サッカー協会のキャプテン(会長)に就任した翌03年、米国で開催された女子のW杯を視察した。日本選手団を宿舎で激励した際、選手たちに、「この際、問題や要望があれば聞かせてほしい」と話しかけた。
<みな、遠慮してシーンとしている。そんな中、1人が勇気を出して、何を言ってもいいんですかと言ったので、何でもいいよと促すと、「合宿に行くとき、交通費の前借りができないでしょうか。やりくりがとても厳しいので、せめて前借りさせてもらえませんか?」と遠慮がちに発言してくれました。エーッ、そんなにお金に困っているの?と驚きました。女子代表であっても、選手それぞれ、家族や職場の方々の支援によってこれまで、踏ん張ってきたのだと胸が締め付けられる思いでした>(181頁)。交通費の前借りだけでなく、日当を出すことなど改善を約束した。
「なでしこジャパン」の愛称がつけられたのは04年のことだ。アテネ五輪の出場を決めたら公募により愛称をつけると約束し、日本女子は見事に五輪切符を獲得した。
「なでしこジャパン」が世界一に上り詰めたのは11年の女子W杯。その年、「なでしこジャパン」は流行語大賞に選ばれた。これ以来、サッカー以外の女子スポーツでも〇〇ジャパンが次々と誕生した。
バスケ改革も「選手ファースト」で
サッカーのプロ化という大仕事を達成した川淵が、次に取り組んだのはバスケットボールの組織的な立て直しだった。日本国内の男子トップリーグは、05年に新興の「bjリーグ」が旗揚げして以来、二つの組織が並立した状態が続いていた。
国際統括団体であるFIBAは、16年のリオ五輪を前に、①両団体の組織統合、②両リーグのチームの統合、③男女代表の強化体制の確立――の3点を求め、15年6月までに実現できなければ五輪を含む国際大会からの除外などの制裁を科すと通告していた。
男子は1976年モントリオール五輪以降、五輪出場を逃しており、制裁があろうとなかろうと、五輪切符は遠い存在に思えたが、女子はそうはいかない。04年アテネ五輪以来の五輪出場を目指し、13年アジア選手権で中国を倒してアジア女王になり、五輪切符が目の前にあった。それだけに「制裁」が重くのしかかろうとしていた。
この大ピンチを救ったのが川淵だった。過去のしがらみをすべて断ち切り、新たな日本バスケの統括組織を構築していった。
<あの当時、朝方、よく目が覚めました。人生で眠れないなんていう経験はほとんどなかったのに、バスケットボール界をどうまとめればいいのか、選手たちをいかに早く国際舞台に復帰させてあげられるのか、頭の中だけで、頭の血管が本当に切れてしまいそうになるまでバスケットについて考え尽くしていた>(209頁)。
具体的に、どんなしがらみを、どのように断ち切っていったのかは書いていないが、効果的だったのは、会議の模様をすべてメディアに公開したことだった。既得権益にしがみつこうとする姿勢は公開の会議の場では後ろ向きにか映らない。「選手を泣かせてはならない」という川淵の一念が協会改革を実現させたと言っていいだろう。
「日本」を変えた男
Jリーグは30年余の歴史を積み重ねてきたが、川淵が歴史の重みを感じるのは、全国に広がったクラブ数だ。10チームでスタートし、2023年シーズンにはJ3まで含め60チームに達した。
サッカーのプロ化が、当初は国際競技力向上のための手段として捉えられがちだったが、時代を経てみると日本のスポーツ文化を花開かせる壮大な実験であったことも理解できる。23年の文化勲章受章は、まさにその功績に対するご褒美と言えるだろう。
30数年前、川淵のような剛腕がサッカー改革に乗り出さなかったら、日本サッカーは今頃どうなっていたのだろう。川淵に代わるリーダーが率いて現在のようなプロリーグが誕生し、ファンの心をつかんでいただろうか。
歴史の「if」に正答を求めようがないが、本書のサブタイトルにある「日本のスポーツ界を変えた男」は、まさに川淵にふさわしい形容であり、変えたのはスポーツに限らず、「日本」そのものだったのかもしれない。