川淵は新聞のインタビューに「Jリーグにジャイアンツはいらない」と答えている。巨人戦のテレビ放映を通じてリーグ内の優先的地位を確立し、コミッショナーすら意のままにクビをすげ替えてきたプロ野球での「読売支配」に対する拒否宣言でもある。
<地域密着、ホームタウンに根差したJリーグと、興行色の強い野球。観客1人に至るまで実数を発表し、健全なクラブ経営に繋げようとしていた経営方針と、どんぶり勘定で常に東京ドームを満員と発表するプロ野球。様々な違いや、その理由をメディアで説明するたびに、Jリーグの理念への理解が深まっていく手応えがありました。>(91頁)
「独裁者」と読売新聞の「ドン」。激しい論争を繰り広げた2人には後日談がある。川淵の古希(70歳)の祝いに渡辺がこんなメッセージをおくったという。
「サッカーと野球で青少年の精神向上に頑張りましょう」。<あの論争の本当の意義とは、渡辺さんと僕、新旧プロスポーツの対立などではなく、日本のスポーツ界をリードしていくための共闘へのスタートでした。>(92頁)
「ドーハの悲劇」は反撃の狼煙
Jリーグが発足した93年の新語流行語大賞に「Jリーグ」が選ばれるなど上々のスタートを切ったが、その勢いに水を差しかねない出来事もあった。1年目の10月、中東カタールのドーハで行われた94年W杯米国大会のアジア最終予選。日本代表は最終イラク戦に勝てば初めてのW杯出場というところまでこぎつけ、ロスタイムまで2-1とリードしながら追いつかれ、またしても涙をのんだ。いわゆる「ドーハの悲劇」だ。
この試合、日本国内のテレビ視聴率は48%という驚異的な数字をマークした。それほど期待が大きかったという現れであり、まさかの落選はショックでもあった。
川淵は選手団長としてドーハに乗り込んでいた。ロスタイムに入ってからは時計ばかりが気になり、同点ゴールを決められた場面はショックのあまり、ほとんど記憶から消えてしまったという。サッカー人気が一過性のものに終わってしまうのではないか。そんな心配は杞憂だった。
<日本中がひとつになって、代表チームを応援し、W杯という大会がどれだけ大きな価値を持っているかを初めて知って頂けた。あの悲劇は、日本サッカー界にとって反撃の狼煙(のろし)だったのではないか。あそこでスンナリと行けなかったから、サッカー日本代表は再起する力を発揮し、皆さんに愛されたんじゃないか。(略)あの後、日本代表が7大会連続でW杯に出場できる国になるための、強い基盤を作ってくれたとの思いです。>(119~120頁)
電撃的な「加茂解任」の裏側
2002年W杯が日韓両国の共催で開催されることが決まったのは、「ドーハの悲劇」の3年後の96年5月だ。その時点で、日本はW杯本大会の出場経験がない。日韓大会が初めてのW杯にならないためには、98年フランス大会に是非とも出場しなければならない。だが、「初出場」に向けての重圧は、97年のアジア最終予選でも日本代表に襲い掛かった。
アジア予選で初めてホーム&アウェー方式が採用され、加茂周が率いる日本代表は2戦目、ホームで行われた韓国戦で、1点をリードしながら後半残り6分から2失点し、1-2で逆転負けを喫した。これに追い打ちをかけたのが予選8試合の折り返しとなる4試合目、10月4日、アウェーでのカザフスタン戦だった。
前半22分、日本はDF秋田豊のゴールで1点先制したが、後半のロスタイム寸前、同点に追いつかれた。これで1勝2分け1敗。勝ち点は「4」で、韓国の「12」はおろか、アラブ首長国連邦(UAE)の「7」にも差をつけられた。
その晩、アルマトイのホテルに日本からの報道陣を呼び集め、日本サッカー協会会長の長沼健は加茂監督の更迭、コーチの岡田武史の監督就任を発表した。川淵は強化責任者として長沼に更迭を進言していた。
<加茂を更迭し、クラブでの監督経験もない、まだ41歳の岡田コーチを監督に昇格させましたが、彼は「自分は加茂さんに呼んでもらったのだから監督なんて絶対にできません。一緒に辞めます」と譲らない。早大のサッカー部で、岡田を古川電工に引っ張った経緯もあったので、会社の上司みたいに、「できないじゃないんだ、やるんだ!」と無理に説得し続け、しぶしぶ受けてもらった。>(128頁)と、電撃的な加茂解任劇を振り返る。
この荒療治が効いて、日本はアジア3チーム目のW杯切符を手にした。フランス大会は3戦全敗に終わったが、02年の日韓共催大会では初の勝ち点、初の勝利、さらに初の決勝トーナメント進出と、初物尽くしで実績を残し、その後のW杯連続出場へと道をつなげた。