2024年5月14日(火)

スポーツ名著から読む現代史

2024年3月1日

計算づくの「開会宣言」

 93年5月15日、東京・国立競技場で記念すべきJリーグの開幕戦、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの試合が午後7時30分キックオフのナイターで行われた。その前日、東京地方は終日、強い雨に襲われた。

 「明日、無事に開幕セレモニーが行われるだろうか」。何事にも強気の川淵だが、この時ばかりは不安になったという。当日、午前4時には目が覚めてしまい、祈る思いで外を見ると快晴。<あぁ、よかった、と本当にほっとして、いつもよりずっと早く、愛犬のゴローを連れて散歩に出かけた時の嬉しさったらありませんでした>(50~51頁)

 開幕試合をナイターにしたのは、青々と輝く芝を最高の舞台にし、そこにスポットライトを当てる〝劇場効果〟を狙った仕掛けだったという。「開会宣言」も川淵らしく、考え抜かれた言葉だった。

 「開会宣言。 スポーツを愛する多くのファンの皆さまに支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」

 <冒頭をサッカーではなく、スポーツを愛する皆さま、とした理由は言うまでもありません。サッカーのプロリーグの誕生は、サッカーのためだけではなく、スポーツ界全体を豊かにするためである、という強い理念を、皆さんに伝えたかったのです>(55頁)。宣言はわずか30秒に収められた。のちのち、資料映像として取り上げられる際、長すぎてカットされないよう、計算づくで短くしたという。

「0.0001%」からの逆転

 新たに発足したリーグには10チームが参加した。90年に日本サッカー協会がプロリーグへの参加の意思があるかを調査したところ、20団体が手を挙げたという。そこからヒアリングを通じて10チームに絞り込んでいったのだが、いまも語り草となっている「奇跡の滑り込み」が鹿島アントラーズだ。

 母体企業は住友金属(現日本製鉄)で、ホームタウンは茨城県鹿島町(現鹿嶋市)。チームはJSL(日本サッカーリーグ)の2部で天皇杯の優勝経験もない。町の人口も約4万5000人ほどで、他の候補地とは大きく見劣りしていた。

 ヒアリングの際、川淵は「99.9999%、(選ばれる)可能性はありません」と鹿島関係者に伝えた。だが、鹿島の関係者の一人は、こう言って食い下がった。「可能性は0ではないのですね。残る0.0001%は何ですか?」。

 川淵は苦し紛れに、こう答えた。「観客席に屋根をつけ、椅子も独立式で1万5000人を収容できる日本初のサッカー専用スタジアムでも造ってくれるんだったら考えますよ」。これで諦めてくれるだろうと思っていたら、数日後、鹿島関係者が川淵の元を訪ねてきた。「県知事の許可が下りました。屋根付きのサッカー専用スタジアムを作ります」

 鹿島アントラーズは10チームの中に滑り込み、日本初のサッカー専用スタジアム「茨城県立カシマサッカースタジアム」はJリーグ開幕の11日前に完成。5月16日の名古屋グランパスとの開幕戦ではジーコのハットトリックの活躍もあって快勝。町民一体となった応援もあり、見事にJリーグ初代王者になった。

「独裁者」VS「読売のドン」論争

 Jリーグ元年、93年には180試合が行われ、1試合平均の入場者数は1万7976人で、JSL時代の4.5倍になった。クラブの平均収入も予想をはるかに上回る25億円に達した。

 上々の好スタートを切ったJリーグは、それまで「独り勝ち」だったプロ野球を刺激する形にもなった。チーム名を地域名と愛称にして企業の名前を消し、テレビの放映権をリーグ管理としたのもプロ野球を「反面教師」として生まれた施策だ。入場者数を実数で発表したのも、概数でしか発表していなかった、当時のプロ野球への挑戦に映った。

 「川淵は独裁者だ」。プロ野球・読売ジャイアンツの親会社、読売新聞のドン、渡辺恒雄が猛烈に反発した。とりわけ渡辺が問題にしたのは、放映権のリーグ管理だった。系列の日本テレビでの放映を通じて、ヴェルディをジャイアンツと同様の人気球団に育て上げようというビジネスプランがJリーグでは使えない。


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