2025年12月6日(土)

野嶋剛が読み解くアジア最新事情

2025年8月15日

なかなか実現しなかった遺骨調査

 日本では戦後、長くバシー海峡での死者のことは忘れられていた。しかし、海峡で九死に一生を得た故中嶋秀次さんが、現地の人々と協力しながら1981年に潮音寺を建立した。その経緯は門田隆将『慟哭の海峡』(角川文庫)に詳しい。

 慰霊祭のなかで注目されたのは、犠牲者たちの遺骨収集であった。慰霊祭を報じた日本メディアはいずれも「9月から厚労省の調査が始まる」と伝えた。遺骨が果たして恒春半島に残っているのか、掘り起こし調査してDNA検査するのか。

 実はこの10年ほど調査を求める現地と、調査を担当する厚労省の間で長い協議が行われてきたが、なかなか調査が実現していなかった。厚労大臣の弔辞が調査に踏み出すメッセージと受け止められた。

 バシー海峡で大量の人々が亡くなったのは間違いない。そして黒潮が北上している関係から、台湾南部の海岸線に遺体が流れ着いた可能性も高く、目撃談はかなりある。現地の台湾の人々が死者を不憫に思い、埋葬してくれたという体験談・言い伝えも複数確認されている。

 遺骨調査の実現に取り組んできた高雄在住の館量子さんによれば、恒春半島の先端にある台湾第三原発の付近で、遺骨を埋葬したという確かな証言があるという。付近の海岸線は美しいビーチが広がり、国立公園に指定されており私的な試掘などもできなかった。ただ台湾側は発掘に反対はしていない。

「人災」でもあったバシー海峡の悲劇

 船舶の沈没による死者は戦死者のなかで「海没死」とカテゴリーされる。日本兵の海没死は異常な多さで、35万人を超えたとされる。日本兵の死者全体が240万人とされるので、その約十分の一にあたる。

 バシー海峡の悲劇は人災の部分もあった。米軍に日本軍の輸送船出港の暗号電文が解読されていた。米軍の魚雷の精度も1943年ごろから急改善されていた。これらの事実を、フィリピンで米軍を食い止める作戦を優先した大本営は見てみぬふりをしていた。

 日本軍は兵士を装甲の薄い民間の輸送船に詰め込み、若い兵ほど船底の区画の狭い部屋に押し込まれた。魚雷攻撃を受けて浸水が始まっても逃げ出しようがない。恐怖に発狂する人も続出したという。

 なんとか船外に逃げ出しても、水も食料もなく炎天下の海上を彷徨った挙句に死を迎えた人も多かったに違いない。そんな苦しみと悲しみの中で亡くなった兵士たちは国家によって弔われるべきである。


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