ライフラインが遮断され、有機野菜も入らず
店の再開は難しかった
2011年3月、震災の日のことを伺った。
「その日は店にいたんですが、地震で、冷蔵庫は倒れるし、ワイングラスは割れるし、大変でした。近くのアパート暮らしだったのですが、妻とまだ9カ月だった息子のことが心配で、すぐに自転車を飛ばした。すると直後に彼らは外に出て、近所の方に助けられ、何とか無事でした」
「でも水も出なければ、電気も通らないというので、店は丸1カ月が過ぎてようやく掃除に取りかかれたという状態でした」
しかし、被害はそれでは終わらなかった。
「最初は、原発は無事だと報道されていたんです。それが3日後に水素爆発。だんだん安全ではないという方向に変わってきた。1週間ほどして、やっとチケットが取れ、妻と息子をひとまず静岡の実家に避難させた」
店の再開を検討する中、放射能被害で頼りにしていた有機農家も「当分、野菜を売れない」という。さらに幼い息子への影響を考えると、不安は募った。
そんな時、兼ねてから知己のあった人形町の老舗シャモ専門店『玉ひで』の大将、山田耕之亮さんから連絡があり、本店のそばの倉庫にしていたスペースを使ってもいいという申し出があった。心底、ありがたかった。
そんなわけで店の2階には、洗濯物が翻り、下町的情緒溢れる光景が展開しているが、それは、ここがそもそも倉庫で、2階は今も『玉ひで』の従業員寮だから。
再出発にあたり、廣瀬さんが内装を依頼したのは、夢だった菜園つきの自宅を兼ねた店を郊外に建てようとしていた際に頼んでいた福島県の工務店だった。被災者のための快適な木造仮設住宅で注目される会社だった。
イタリアやスペインの三ツ星レストランで学んで
さて、今回、改めてお話を伺って仰天したのは、プロフィールに“イタリアとスペインに5年”とだけあった廣瀬シェフの修行歴だ。