2024年11月23日(土)

都会に根を張る一店舗主義

2014年6月9日

 まず、正確には生まれは福島県ではなく、長崎県の福島町(これは偶然)。母親が里帰り出産をしたからだ。その後、もともと暮らしていた横浜に戻り、4歳のときに転勤で福島県に移り、10代半ばまで過ごした。

お店は、木をたくさん使ったシンプルで暖かな内装が、落ち着く

 この業界に入ったきっかけは、最初に修行した荻窪の『ヴィア・ヌオーヴァ』。数年後、たまたまイタリアから帰国したフロアの人の紹介で、本場で学びたいと20才で渡伊。

 最初はエリミア・ロマーニャ州のモンテ・グリドルフォ。古城のレストランで、週末には200~300人単位の披露宴も入る大がかりな店だった。

 そこで4カ月ほど働いた後、北イタリアのベルガモでミシュラン2つ星『ダ・ヴィットリオ』へ。次の季節はサン・マリーノのレストラン。

 その後、修行時代で最も充足していたのが、カンパーニャ州の『ドン・アルフォンソ1890』での10カ月。当時、南伊では皆無だったミシュラン3つ星を手にすることになるこの店が、まだまだ素朴さを残し、試行錯誤の中にある黄金期だった。

 「何より影響を受けたのは、その自給自足の姿勢です。オリーブオイルも、ハーブ類も、トマトソースもすべて自分たちで作る。それに、それまでのフランス料理的なイタリアンを目指すのではなく、イタリアの郷土料理というものを、いかにレストラン料理に仕上げるか、そんな新しい流れを作った最初の店でした」。ちなみに同店で学んだ仲間には、和歌山で話題となっている『アイーダ』の小林寛司シェフなどがいる。

 98年、豆料理や魚料理も繊細なプーリア州を経て、『ドン・アルフォンソ』の紹介でスペインに一年。カタルーニャ地方の3つ星『エル・ラコ・デ・カン・ファベス』や、今でこそ世界中グルメが詣でるバスク地方でも働いた。

帰国後、京都の「菊乃井」でも学ぶ

 2000年8月末の帰国直前には、マントヴァの3つ星『ダル・ペスカトーレ』を経て、ピエモンテ州のワインの聖地、ランゲ地方の『ロストゥ・ディ・バロス』で働く。スローフード協会の重鎮も足しげく通う名店で、セラーにはチーズが常に50種以上備えてあった。その後、北上してジビエ料理などを楽しめるアルト・アディジェ州の『タンザー』、仕上げはシチリア島パレルモで90年末から注目されてきた名店『バイバイ・ブルース』で働いた。


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