2024年11月22日(金)

解体 ロシア外交

2014年6月26日

 1998年、最高議会選挙で初当選し、国会議員になった。当初は、当時の大統領レオニード・クチマを支持する「社会民主合同党」を支持していたが、2000年には政党「連帯」を設立し、さらに翌2001年には前大統領のヴィクトル・ヤヌコーヴィチも所属していた親ロシア政党「地域党」の立ち上げに協力するなど、短期の間に政治方針にぶれが見られたが、「地域党」からもすぐに離脱し、2001年12月には、後に大統領となるヴィクトル・ユシチェンコの「我らがウクライナ」ブロックに加わり、ユシチェンコの「側近中の側近」になった。そして、2004年のオレンジ革命を資金面で支え、ユシチェンコが大統領になった後は、安全保障・国防評議会書記に任命された。さらに、2007年2月にはウクライナ中銀の理事長(総裁)、2009年10月には、外務大臣に就任した。

ポロシェンコ氏。大統領就任式の様子(写真:AP/アフロ)

 2010年にオレンジ革命で敗れたヤヌコーヴィチが大統領に就任すると、ポロシェンコは閣僚から解任されるが、なんと2012年にはヤヌコーヴィチ大統領から経済発展・貿易相に任命されたのであった。これは、「EUとの橋渡し役」となることを見込まれての入閣だったが、これによりポロシェンコは党派を超えた人脈を築くことができ、また内外から党派を超えて信頼を勝ち取れる人物という評価を得ることもできた。

 だが、2012年にはヤヌコーヴィチを見限り、その頃から反政権的な動きを水面下で進めていたとも言える。そして、ユーロマイダン革命の前に、政権によるデモ弾圧が強まると抗議の姿勢を鮮明に出すようになり、ユーロマイダン革命に資金援助をしただけでなく、拷問され傷だらけのデモ指導者を見舞い、デモ隊の拠点、「独立広場」で演説に立って脚光を浴びたのだった。

バランス感覚に優れた現実主義者

 これらの経歴における実績に加え、彼が得てきた評価が大統領選に勝利した原動力となったと言えるだろう。

 まず、対抗関係にあったユシチェンコとヤヌコーヴィチの両方と良好な関係を築いてきたこともあり、民族主義者でもなく、特定のイデオロギーにも染まっていない、バランス感覚に優れた現実主義者で、政治対立や国家分裂の危機を回避するには適任と各界から高い評価を得ていた。


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