中ソ論争は「異例」の事態
中露の対立といってすぐ思い浮かべるのは、かつて1960年代の中ソ論争であり、それ以前の蜜月を考え合わせると、現状・将来とオーバーラップしたくなるのもわからなくはない。中ソ論争をリアルタイムで実見した人もいるだけに、いっそう説得力がありそうである。
しかしよく考えてみれば、中露が親密と相剋の度をエスカレートさせたのは、たかだかその前後あわせて30年ほど、いかに多く数えても半世紀を超えるかどうかにすぎない。中露の関係は、アメリカ合衆国よりも長い300年以上の歴史があるのであって、そのタイムスパンを考え合わせれば、そうした時期などごく短いともいえる。
中ソ論争を撞き動かしていたのは、マルクス・レーニン・毛沢東イデオロギーである。その背後に、もちろん国境問題など実利がからんでいたことはいうまでもない。けれどもそうした係争は、イデオロギーのいかんにかかわらず、以前から潜在していたものであって、むしろイデオロギーという触媒で顕在化、極端化しただけ、その時期特有、異例の事象だった、と考えるほうが肯綮(こうけい)に当たっていよう。
かつて激しい論争になりながら、戦争や冷戦のような事態にまで至らなかったし、今やそうした対立を劇化させる触媒は、ほぼ存在しない。中露が相剋、決裂する要素は、いよいよ希薄になっている。
歴史をみる者にとっては、むしろそう解釈したほうが真相をついているように思うし、だとすれば、その由って来たるところも考えたくなってくる。
「同じDNA」をひきつぐ中露
中露関係の歴史は17世紀、ロシアがシベリアを東進し、やはり東アジアに勢力を拡張していた清朝と接触したときにはじまる。その結果、両者が結んだ1689年のネルチンスク条約は、高校の世界史の授業でも習う重要事件で、名前くらいご存じだろう。
この条約がおもしろい。条約とよばれる取り決めなのだから、互いに対等の立場でとりむすんだものである。しかし東西はるかに隔たった当時のロシアと清朝が、まさか全く同一のルール・規範・認識を共有していたわけはない。にもかかわらず、両者は対等で、以後も平和友好を保ちえた。