たとえばわかりやすい点として、条約上でも使われた自称・他称がある。ロシアの君主はローマ帝国をついだ「皇帝(ツァー・インペラトル)」であるけれども、そんなことが清朝側にわかるはずはなく、清朝はロシア皇帝を「チャガン・ハン」と称した。ロシアも中華王朝の正称「皇帝」というのは理解できず、清朝皇帝を「ボグド・ハン」と称した。「ハン」というから、ともにモンゴル遊牧国家の君主であって、「チャガン」は白い、「ボグド」は聖なる、という意味である。つまり客観的に見ると、両者はモンゴル的要素を共有し、そこを共通の規範とし、関係を保っていたことになる。
それは単なる偶然ではない。ロシア帝国も清朝も、もともとモンゴル帝国を基盤にできあがった国である。もちろん重心は、一方は東欧正教世界、他方は中華漢語世界にあったものの、ベースにはモンゴルが厳然と存在した。両者はそうした点で、共通した複合構造を有しており、この構造によって、東西多様な民族を包含する広大な帝国を維持したのである。
だから両者がとり結んだ条約や関係は、いまの西欧、ウェストファリア・システムを起源とする国際関係・国際法秩序と必ずしも同じではない。露清はその後になって、もちろん国際法秩序をそれぞれに受け入れ、欧米列強と交渉、国交をもった。しかし依然、独自の規範と論理で行動しつづけ、あえて列強との衝突も辞していない。これも近現代の歴史が、つぶさに教えるところである。
いまのロシア・中国は、このロシア帝国・清朝を相続し、その複合的な構造にもとづいてできた国家にほかならない。いわば同じDNAをひきついでいる。両国が共通して国際関係になじめないのは、どうやら歴史的に有してきた体質によるものらしい。中露が19世紀以来、対立しながらも衝突にいたらず、西欧ではついに受け入れられなかったマルクス・レーニン主義の国家体制を採用しえたのも、根本的には同じ理由によるのかもしれない。中ソ論争はその意味では、近親憎悪というべきだろうか。
クリミアも尖閣も、西欧への挑戦
西欧世界には、モンゴル征服の手は及ばなかった。その主権国家体制・国際法秩序、もっといえば「法の支配」は、モンゴル帝国的な秩序とは無関係に成立したものである。だからロシアも中国も、歴史的に異質な世界なのであって、現行の国際法秩序を頭で理解はできても、行動がついてこない。制度はそなわっても、往々にして逸脱する。
しかも中露の側からすれば、国際法秩序にしたがっても、碌なことがあったためしがなかった。中国は「帝国主義」に苦しみ、「中華民族」統合の「夢」はなお果たせていない。ソ連は解体して、ロシアは縮小の極にある。くりかえし裏切られてきた、というのが正直な感慨なのであろう。中露の昨今の行動は、そうした現行の世界秩序に対するささやかな自己主張なのかもしれない。現代の紛争もそんなところに原因があるのだろうか。