10月14日は「鉄道の日」だ。新橋~横浜間で1872年(明治5年)10月14日、日本初の鉄道が開業したことにちなんでいる。
この路線は現在のJR東海道線にあたるが、新橋駅、横浜駅とも、その位置はいまと異なる。当時の新橋駅は汐留地区に設けられ、遺構が「旧新橋停車場」として保存、公開されている。また当時の横浜駅は、現在の根岸線桜木町駅だ。
国の近代化、富国強兵、殖産興業などを図るための新しい交通機関として日本を走り始めた鉄道は、その後、急速に路線を延ばしていく。
東海道線は、1889年(明治22年)7月1日に新橋~神戸間の全線が開通。1896年(明治29年)には急行列車が登場し、同区間を17時間22分で結んだ。
そして1912年(明治45年)には、新橋~下関間を結ぶ特別急行(特急)が登場。下関で連絡船、釜山で再び鉄道に乗り換えて、中国、ヨーロッパ方面に向かうことができた。航空機が一般的でなかった時代、鉄道が国際連絡の役割も担ったのだ。
1934年(昭和9年)に発行された『鉄道省編纂 汽車時間表』には、「日本・莫斯科・羅馬・伯林・倫敦・巴里間連絡」というページがあり、東京駅を15時00分発の下関行き特別急行「富士」で出発すると、3日目に京城(ソウル)、4日目に哈爾浜(ハルビン)、12日目に莫斯科(モスクワ)、14日目に伯林(ベルリン)、15日目に倫敦(ロンドン)、巴里(パリ)に到着、と掲載されている。
発展が続いた鉄道に訪れた苦難
明治期に登場した新時代の交通機関「鉄道」は、経済や物流、人々の移動、生活などを支え、発展させる存在として、各地でその新線が誕生。国有鉄道(JRの前身)の路線延長は、1936年度(昭和11年度)末には約1万7422kmに達する。2026年10月時点におけるJR旅客6社の営業キロ合計は約1万9724kmなので、その9割近くが昭和初期までに開通していたことになる(路線延長だけを見た単純計算ではあるが)。
しかしそうしたなか、鉄道に苦難が訪れる。
自動車(バス)の普及は、規模の小さい民営鉄道への打撃が大きかった。1930年(昭和5年)ごろに発生した昭和恐慌の影響とあわせて、建設の中断、廃線に追い込まれる場合もあった。
そして戦争によって鉄道は軍事優先の状態になり、旅客列車の削減、旅行の制限、閑散線区の営業休止などが行われたほか、物理的な被害も受けるようになる。
鉄道が大陸方面への主たる移動手段だった当時、東京~下関間に新線を建設して高速走行させる「弾丸列車」計画が進められ、1941年(昭和16年)に着工されたが、これも戦局の悪化によって1943年(昭和18年)に工事が中止された。
復興する日本、鉄道の黄金時代は終了か?
戦後、日本の復興につれ鉄道の復旧も進行。需要が増加するなか、電化(SLなどから電気機関車、電車への移行)、安全面の近代化が図られるなど、鉄道は再び進化の道を歩み出す。
しかし高度経済成長期を迎え、日本の大動脈である東海道線は輸送力が限界に達していた。
このとき国鉄(JRの前身)の内部では、輸送力が足りないのなら在来線の東海道線の線路を増やせばよいのでは、という考えが有力だった。
またこの時代、自動車や航空機が新時代の交通機関として注目を集めており、鉄道の黄金時代は終わった、鉄道はもはや斜陽、という考えが広がっていた。
この状況に当時の国鉄総裁であった十河信二は抗い、東京~大阪間の所要時間を半分以下に縮め、3時間で結ぶ「超特急」の建設を主張。政治的な働きかけや、資金面、技術面の問題解決に奔走する。
そうして1964年(昭和39年)10月1日に東京~新大阪間で開業したのが、世界初の高速鉄道「新幹線」である。
新幹線の成功は「高速」という新しい価値を鉄道に付加。日本同様に鉄道斜陽論が広がっていた海外に伝わって、フランスのTGV、ドイツのICEといった高速鉄道の誕生に影響を与えた。
新幹線が変革したのは、日本国内の移動だけではない。鉄道の未来も変えたのだ。
東京駅の東海道新幹線18・19番ホームの新大阪側には、十河信二の肖像と座右の銘「一花開天下春」(苦労に耐えた先に一輪の花が開き、天下に春の訪れを感じる)を刻んだ記念碑が建立され、令和の現在も発着する新幹線を見守っている。
また東海道新幹線の建設にあたっては、戦中の「弾丸列車」計画で確保されていた用地を活用。5年という短期間での東海道新幹線完成に繋がった。
最後の「ドクターイエロー」引退
ちなみに、新幹線のなかでも高い人気を誇る「ドクターイエロー」は、1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開業した当初から存在していた。
その開業前に試験車両として使われていた初代新幹線車両0系似の電車(1000形)を改造し、誕生した922形電気試験車――T1編成である。
複雑な部分があるため細かくは省略するが、このT1編成が「ドクターイエロー」の祖先と考えてもよいだろう。
「ドクターイエロー」はその後、1974年(昭和49年)に0系タイプの922形T2編成、1979年(昭和54年)に同じく0系タイプの922形T3編成が登場。
そして2000年(平成12年)に700系タイプの923形T4編成、2005年(平成17年)に同じく700系タイプの923形T5編成が登場している。
このうち、2026年10月現在も現役なのはT5編成だけだ。この最後に残ったT5編成も、2027年1月に引退の予定。「ドクターイエロー」という存在が、まもなくその幕を下ろす。
そして「ドクターイエロー」に代わって登場する「ドクターS」(客を乗せて営業運転を行いながら線路設備の点検ができるN700S)の検測走行が、2027年1月に始まる。
また、新幹線で初めて300km/h走行を実現した500系も、2027年1月13日で定期列車としての運行を、2027年7月に営業運転を終了する見込み。
「2027年」は、新幹線にとって変化の年だ。
駅スタンプやブルートレインで賑わうも
話を1964年(昭和39年)に戻そう。
東海道新幹線が開業し鉄道の未来は明るいようにも思えるが、設備投資の負担、モータリゼーションの進行などから、国鉄の経営状況は悪化。新幹線の輸送人員は伸びていくも、国鉄全体では旅客輸送量、貨物輸送量とも減っていく。鉄道は斜陽との見方も強くなる。
“使命”を終えたとされる鉄道路線を廃止する動きも進行。1981年(昭和56年)には国鉄再建法に基づいて83線が「特定地方交通線」に指定され、廃止(バス転換)、第三セクター鉄道化が進められた。
こうしたなか、1970年代から行われた「ディスカバー・ジャパン」「一枚のキップから」「いい日旅立ち」といった大型旅行キャンペーンが一定の成功を収めたり、それに連携する形で駅スタンプが設置されたり、ブルートレインブームが起きたりなど、ポジティブな鉄道の話題もあった。
しかし国鉄が抱えていた問題は大きく、1987年(昭和62年)4月1日、国鉄の分割民営化が実施されて、JRが誕生することになる。
令和の「鉄道」のあり方とは?
非常にざっくりとJR化までの日本の鉄道史を見てきたが、地方路線の存続問題は令和の現在も耳にする話である。
鉄道のメリットは、「大量の人や物を効率的に輸送できる」「定時性に優れる」「省エネ」といったところだ。その上で、航空機ほどではないが「高速」にできることも利点である。
都市鉄道や新幹線といったそのメリットを活かせる場面であれば、鉄道は斜陽、衰退どころか、無くなっては困る社会のインフラであり続けていることは、言うまでもないだろう。
ただ、公共交通の維持については様々な観点があるため一概には言えない部分もあるが、そのメリットを活かせない場合、鉄道が存在し続けることが難しいのも事実だろう。
明治、大正期は鉄道以外の近代的な移動手段が乏しく、鉄道が発達した。しかしその状況は、明らかに変わった。
鉄道は万能の輸送機関ではない。状況の変化によって、その特徴を活かせる形に収束、進化していくのは必然に思える。それは衰退と呼ぶべきものなのだろうか。
移り変わる世の中に適応、進化して誕生したのが「新幹線」である。現在建設が進められている超電導リニアによる「中央新幹線」も、そのひとつになるのかもしれない。
