2024年5月1日(水)

個人美術館ものがたり

2009年6月19日

 戦時中は軍人として、戦後は弁護士として生きてきながら、40代に入ったころ、たまたまある雑誌で、高畠華宵が77歳の老齢で兵庫県明石愛老園で余生を送っていることを知る。そこから鹿野氏と華宵との文通が始まり、自宅に華宵の間を造り、ご本人の華宵を招き、華宵会も発足させることになる。

高畠華宵の常設展示室より

 その1年後、華宵はこの世を去った。だからその生涯の最後に近いところで、美術館への繋がりが生れたわけで、考えれば不思議なことである。

 美術館の1階と2階では「夭折の挿絵画家・小林秀恒展」という企画展をやっていた。華宵よりも20年ほど若い後の世代の人で、岩田専太郎、志村立美(たつみ)とともに「挿絵界の三羽烏」と称された人気画家だ。

 描く人物像は、一見華宵とも似ている。というより、この時代のこの世界で描かれる人物像は、長い睫毛、潤んだまなざし、ふっくらした頬、鼻筋は通り、唇の濃い色、といったところは、大雑把に見るとみんな共通している。大衆の憧れに狙いを定めながら、いつの間にか挿絵世界の全体で出来上がっていったスタイルなのだろう。その中で、絵の中のちょっとした表情やしぐさ、描く題材などで、各挿絵画家の個性の違いがあらわれるようである。

 小林秀恒の絵をそれと知って見るのははじめてだったが、戦艦大和や飛行機のペン画で有名な小松崎茂が、若いころ入門した挿絵画家として、名前だけ覚えていた。

 挿絵画家の展覧会は、原画が少ない。大衆雑誌の場合、絵と文章を印刷して雑誌を出すというその結果だけが大事で、それがすんでしまえば、原画類はあまり大事にされなかった。いまは著作権やその他もっとうるさく、そういうことは少ないと思うが、戦後もしばらくはそういう雑な感じがあった。ぼくの時代でさえも、小さなマンガ出版社で出した本のイラスト原稿の大部分が戻ってこなかった。それが特別奇異なことでもなく、当り前のことだったのだ。逆にいうとそれは、当の挿絵画家自身も同じで、目的はその肉筆画そのものではなく、あくまでそれが印刷されたときの仕上りが勝負だ。だからミスしたところに紙貼りして修正したり、何かを塗り潰したり、原画には印刷効果の範囲内での荒っぽい作業が見え隠れする。それは完成した絵というより、やはりあくまで印刷のための原稿なのだ。

竹久夢二の作品

 展示を見ながら、これほど学芸員の仕事が見えてくる展覧会もないだろう、と思った。絵の展覧会ではあるが、ある意味、歴史の展覧会である。展示物は雑誌そのものや、その注釈や資料的なものが多い。学芸員の仕事なくして成立しない展覧会だ。


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