実はその大会まで1年生同士で試合をした経験がなく、稽古の相手は常に上級生で投げられてばかりいたため自分が強いことに気づいていなかったのである。
練習ではいつも「ボコボコにされていた」と言う程やられていた正木が、試合のたびに勝利を重ねていったのだからさぞ嬉しかったことだろう。
「中学では年に数回県大会があるのですが、2年のときは無差別の大会で優勝し、3年になって初めて全国大会に出場することができて2位になりました。中学生はまだ身体ができていないので、技よりも体力差で勝ててしまいます。僕の場合は身体が大きかったから勝てたようなものです」
覚醒したこの逸材を強豪高校が放っておくわけがない。
いくつもの高校から声を掛けられていたが、名門育英高校の有井克己監督から「篠原のことを知ってるか?」と聞かれたので「尊敬しています」と答えると「今度会わせる」と言われ、地元淡路島で開催された篠原信一の講演会に連れて行かれた。
篠原信一と言えばシドニーオリンピック銀メダリストとして知らぬ者のない存在である。そして育英高校のOBであり、当時は天理大学の監督を務めていた。その篠原から、「君が正木君か、育英に来て、天理に来ていっしょに柔道しようか」と声を掛けられ、握手をされて、ほぼこれで進学先が決まった。
「話した内容よりも握手をした手の大きさが記憶に残っています。篠原先生の手は握れないほど大きかったのです。それが感動でした。僕も舞い上がっていましたし、いっしょに来ていた家族も舞い上がっていました(笑)。それで育英高校で柔道を本格的に始めることになったのです」
弱視の自覚なく苦労した寮生活
家族から離れて育英高校の寮生活が始まった。まず驚いたことは正木と同じような重量級の先輩たちでも走るスピードが速かったことだ。また乱捕りは90分間行われ、「よし、あがれ!」と言われるまで延々と続けられるのである。
さらに柔道部の顧問が担任であり、寮監として共に生活していたため、一日中気の休まる時間はなかった。そして正木は入部1カ月で「辞めさせてください」と音をあげたのである。