2024年11月25日(月)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2014年10月9日

 しかし、得てしてそんな時の先生たちは優しいものだ。普段が怖いだけに優しい態度が部員の心に響いてしまう。「がんばろうよ」、先生の厳しくも優しい説得により、正木も柔道部に留まることができた。

 「ひと夏越えたら一皮むける」。1年生にとってどの運動部でも夏は試練の季節である。厳しい暑さを乗り越えれば強くなれる。そう信じて朝と昼の2部練習を乗り越えた。

 しかし、弱視の正木には練習とは異なる次元の試練が待っていた。それは寮生活の基本とも言える掃除である。

 「お風呂場や脱衣所など、1年生が一番大変なところを担当するんですが、僕には汚れが残っていても見えません。1年生は僕だけだったので先輩にチェックをお願いするのですが、たびたび汚れが残っていると先輩たちも面倒くさくなるし、腹も立ってきます」

 「入部した時に弱視のことは話していたのですが、僕も言いづらくなってしまって。でも、お願いしなければまた叱られます。実は寮生活の中でこれが一番辛かったことです。僕はサボっているつもりはありませんし、一生懸命やっていても見えなかったのですから悔しい思いをしました」

 この時点で自分が視覚障害者であるとは思ってもいなかった。視力が良かったことがなかったために、少しばかり他の人よりも視力が弱いだけ。そんな感覚でいたのである。

 だから、どれくらい見えないのか相手にわかるように伝えることができなかった。

 「柔道で不自由は感じなくても集団生活は辛いことばかりでした。特に集団で行動する時は時間に厳しく、僕ひとりだけ遅れるわけにはいきませんから大変でした。目が悪いことは理由になりません。体育会系の運動部に気遣いなんて期待できませんから、とにかく必死に遅れまいとついていくだけでした」

 他の人にはなんでもない日常的な行動も、正木にとっては心をすり減らすほどの疲労を伴うものであったと想像される。弱視に対する理解者もなく、人知れずいわれなき理不尽との戦いを強いられていたようなものと考えられる。

 さて、気になる高校時代の戦績はというと。

 「1年のときは県大会では優勝したのですが、全国大会では納得のいく結果が出せませんでした。当時は個人戦よりも団体戦が重要視されていて、僕たちも団体戦のことしか頭にありません。2年の時は兵庫県としては43年ぶりに近畿大会で優勝したので、目標は全国大会優勝になりました。先生も周りの選手たちも「優勝するぞ」と一丸となって目標に向かうのですが、生涯で一番きつい練習をやっていた時期です。練習前と練習後では柔道着の重さが3kg以上も違うのです。一番きつい時期は1日5合以上ご飯を食べて、6リットル以上水を飲んでいたのですが、それでも1週間で8kg痩せるほど追い込みました」

 そして高校3年生の最後のインターハイで団体戦、個人戦ともに3位となった。


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