2024年4月24日(水)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2014年10月9日

大学時代の「気の緩み」と弱視への認識

 そして篠原信一監督率いる天理大学へ進学する。

 基礎体力はすでに高校時代にできているため練習は短時間に集中して行われた。

 「篠原先生は重量級の選手全員に毎日稽古をつけてくれるのですが、はじめの頃は先生と稽古すると体力を吸い取られるような感覚がしました。それだけ力の差があるというか、格の違いがあるということです」

 上下関係や寮生活は厳しいものの全国から強者が集まる天理大は、個々の練習は部員の自主的な取り組みに任されている。したがって高校生の頃のように細かく指示を出されることや、熱い言葉で背中を押されることもない。

 正木曰く「これで僕の悪いところが出てしまったのです」と笑う。

 「僕は先生がいなくなると手を抜いてしまうのですが(笑)、大学の時はその悪いところが出てしまったのです。先生がいないところでは追い込まなくてもいい、なんて……。そんな気持ちでいると、周りにいる本当に強くなりたいと思っている選手と差が開いてしまうのです。それが当時はわかっていませんでした。だから大学では結果が残せなかったと思います」

 言葉の通りであれば「さぼり?」と受け取れる。今にして思える反省なのかもしれないが、当時の正木にとって集団生活はそれ自体が心をすり減らすほど疲労を伴うものだったはずだ。本人の自覚がなかっただけで、幼い頃から健常者と共に規則や時間通りに生活すること自体が厳しかったのだろう。先生がいないと気が緩んでしまうというのも、こうした蓄積の影響ではないかと考えられる。決してさぼりではない。疲弊しきっていた心と身体が休息を欲していたのだと筆者は補いたい。しかし、正木は弱視のことは絶対に理由にしてはいけないという思いがあった。問題はあくまでも自分の心にあるということだ。

 弱視のことが顕在化するのは、大学4年の健康診断の時である。再検査を経て著しい視力の低下が明らかになった。警察官や刑務官に就きたいと考えていた正木にとって、弱視で色が識別できない状態に「この先どうしたらいいのだろうか」と将来が見えなくなって頭を抱えていた時に徳島県立盲学校の高垣治教諭に出合った。高垣はバルセロナパラリンピック95kg級の金メダリストである。これが正木の人生を変えるキッカケとなる。


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