人格でなく「制度」が根本的問題?
司馬南氏の主張は中国国内で人気を博する一方、反感を持つ人も少なくないようだ。視聴者の1人が番組中電話で彼のような「ゴロツキ知識人」は歴史の責任を背負うべきだと主張して司会者にたしなめられる場面もあった。また別の視聴者は習近平を含む指導者はアメリカのここが悪いあそこが悪いと言いたてながら、その実自分の子女をアメリカ留学させていると指摘した。また世襲制のように子女を官僚に就かせていると反感も露わにしている。
陳氏は、指導者が口先で反米意見を言いながら、自分の子女を留学させるような「精神分裂的状況」は少なくないと指摘する。司馬南氏は自由にアメリカにやって来て、テレビでアメリカの悪口を言ってるが、その一方で中国ではニューヨーク・タイムズの記者が訪中するビザはなかなか許可が下りない。ソ連、東欧、中央アジアというような一党専制国はみな倒されてもはや残るのは北朝鮮、ベトナム、キューバ、中国、ラオス等いくつかだけだとも指摘する。そんな制度に未来はないというわけだ。
汚職も「制度的腐敗」と「人的腐敗」は異なると指摘している。どんな社会にも汚職現象は生まれるが、民主国家では制度において抑制作用がある。しかし、専制国では自己監督、相互監督による均衡は存在しない。報道の自由、司法の独立、言論の自由がないところで反腐敗とはチャンチャラおかしいのである。
司馬南氏と陳破空氏の論争から私たちは司馬南氏が擁護する共産党政権の体制擁護のロジックを窺うことができるが、その実司馬南氏にはアメリカ「移民」疑惑が出ており、彼がメディアで本音と建前をうまく使い分けているようにも見える。すなわち多くの政府高官が口先で「汚職の撲滅」を言いながら、実際に実施する段になると「中国の特色」や「途上国ならではの問題」、「急進的でない変革の必要性」、「やみくもに私有化を進めそれに普遍的価値が加わればOKというのは浅はか」(司馬南)と言い訳して実施を避けていることが窺える。
官僚たちが根本的改革や財産公開には及び腰で彼らの多くが海外に不動産等の資産を持っていることを見るにつけ、彼らの口先だけの汚職取り締まりは欺瞞にすぎないことが分かる。共産党体制擁護の先兵的役割を果たし、テレビ番組で米国に辛辣な対米批判を浴びせてきた司馬南氏だが、自分が批判にさらされるとたじたじである。司馬南氏の「移民」騒動は彼の「帰国」報告でひとまず落ち着いたが、そもそも妻子がどこにいるか、米国に財産を持つか否かは答えていない。同様に中国の指導者子弟たちが海外に財産を保有しているのではないかという疑惑報道は熱を帯びるばかりだ。
「富める者から富む」と言って鄧小平によって始められた「改革開放」政策は中国をGDP世界第2位に押し上げたが、実際には「富める者」になったのは共産党幹部とその子弟ばかりだった。発展ばかりを追求するあまり、深刻な環境汚染に目を背けるのは国民への背信行為であろう。それどころか汚職取り締まりや環境汚染を嫌がる「金持ち」たちは海外逃亡さえ図っている。「富める者から富む」は「逃げれる者から逃げる」に取って代わられたかのようだ。そしてその「逃げれる者」の代表格が司馬南氏といえるかもしれない。中国政治において展開される皮肉な状況をまざまざと垣間見させる番組だった。
▲「WEDGE Infinity」の新着記事などをお届けしています。