山口さんは西山さんの言葉に微笑みながら、「弘法大師はここにたどり着いたとき、『平原の幽地あり』と言っていますね。それが、霊場として選んだ理由なんです」と続ける。若いころから山野を巡って修行した空海は、日本人の本来の姿、八百万(やおよろず)の神の信仰を深々と感じていた。古来、山は神様のおわすところであり、侵しがたい聖域なのだ。
「大師は直感的にここは霊場にふさわしいと感じたのでしょう。直感は、真言密教にとってとても大切なものなんです。というのも、密教の密は、秘密という意味もありますが、それよりも、言葉で表すのが難しいという意味が大きいですね。だから、直感し、体感する。大師は教相(学問)と事相(体感)の両方が重要と考えますが、高野山は事相、つまり体感の修行に非常に適しているんです」
そこで、西山さんは身を乗り出す。
「弘法大師には、京都の東寺と高野山と、二つの拠点がありましたよね。都と山。まったく性格の異なる二つの拠点です。弘法大師にとって、どちらがより本質的であるのかと言うと、高野山のような気がします」
山口さんは無言でうなずき、西山さんは続ける。
「弘法大師は、亡くなる前に『吾(われ)永く山に帰らむ』と言いました。山に帰る。弘法大師にとって、高野山は特別な場所だったのですね」
二つの聖地
1000メートル級の山々に囲まれた東西6キロ、南北3キロ、周囲15キロに及ぶ標高800~900メートルの山上盆地に、金剛峯寺を中心として形成する寺域を始め町家などが集中している高野山には、二つの聖地がある。ひとつは、空海が修行道場として最初に建設を手がけた壇上伽藍。もうひとつは、奥之院だ。空海が亡くなって86年後、醍醐(だいご)天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜ったころより生まれた、「お大師様」は今も生きて祈りを捧げているという、いわゆる入定伝説が息づく場所である。
密教の道場であると同時に、空海の入定伝説と平安末期の浄土信仰が結びついた、この世の浄土としての高野山。四国八十八カ所巡礼は、紛れもない大師信仰であり、高野山は結願(けちがん)の地である。また、このあとに行く奥之院の数多ある墓石や供養塔も、極楽浄土を願う人々の祈りの形だ。だから高野山霊宝館には、この地の二面性を語る宝物が納められている。