何かしみじみと理解できるものがあった。清方の絵は、いつも文学に近いところにある。はじめに挿絵画家を目指したのは環境の力によるものかもしれないが、おそらくそれが文章の方であっても、何の不思議もなく進んでいったのだろう。絵にしろ文にしろ、清方は自分の生れ育った東京の下町、その時代の生活風俗の中に漂う絶妙な空気の味を、どうしても人々に伝え残したいという気持が強くあったようだ。戦後になって回想的に描いたスケッチ風の小品の絵などに、とくにそれを感じる。絵の中の木の葉や、垣根や、婦人の手にする風呂敷包みなど、その一つ一つの流れが、まるで文章の流れのように味わえる。その光景を文章に綴るように、絵に綴っていくという作者の気持が伝わってくる。
挿絵の仕事を少しずつ卒業して、展覧会場で見せる肉筆画の大作に移っていったのは、官展や文展というものが出来ていった世の中の変化にもよるが、やはり絵の表現を究めたいという作者の気持が強くあったのだろう。清方の師匠の水野年方(2)は、町絵として卑しめられていた浮世絵をもっと大事に、という思いが強く、それは清方の性質にも合って、よく受け継がれている。美術館などでの肉筆画の大作、つまり会場芸術というものに、自分で参画しながらも、やはり日本画家として違和感を感じたのか、「卓上芸術」というものを提唱している。これが清方の本意なのだろう。会場芸術への違和感もさることながら、清方にとっての卓上とは、絵画と文学との掛け橋としての意味合いが深くあったのではないか。
下町育ちの清方は、賑やかなところが好きだった一方で、家の中がうるさいのは嫌だったという。文集にも「内に居れば閑静で、戸外へ出れば賑やかなところ」(『続こしかたの記』)と書かれている。この鎌倉雪ノ下は、正にその格好の場所だったのだ。美術館の庭に面した一角には静かなカウンターがあり、背後にはずらりと画集や文集が揃い、ゆっくり読むことができる。
(本文中写真:川上尚見)
注(1) 床の間に飾る「床の間芸術」や展覧会場の「会場芸術」に対し、挿絵や口絵・画巻・画帖など、
手にとり卓上に広げて間近に筆づかいを味わえる作品
注(2) [1866~1908]浮世絵歌川派の流れをくむ日本画家。浮世絵師の地位向上に努めたが、
弟子に浮世絵の手法を教えることはなかったという