挿絵画家からはじまり、やがて美人画や風俗画で知られる日本画家として大成、
後に、出発地点に通ずるような「卓上芸術」(1)の美を提唱した鏑木清方。
その端正な和風建築の美術館は、今も自身が好んだ賑やかで閑静な場所にありました。
鏑木清方(かぶらききよかた)は大御所という先入観があるせいか、これまでとくに意識して見たことがなかった。何かしら、もう大丈夫、という感じがあって、出合う機会がなかったのだ。小生に多少ひねくれた性質があるからかもしれない。だから今回の鑑賞はじつに新鮮だった。
美術館は鎌倉市雪ノ下にある。鶴岡八幡宮に向う賑やかな小町通りを、左にちょっと入った所にあるのが意外だった。でもこの観光客あふれる小町通りは、脇道を一本入るとすぐ静かになるのが不思議なところである。
この美術館、正しくは鎌倉市鏑木清方記念美術館という。ここが鏑木清方終焉の地で、この場所に画室と住居があったのだ。その時の同じ部材を多く使って、画室や門などを再現整備しながら、和風を生かした気持のいい美術館としている。
学芸員の宮﨑徹さんからお話をうかがった。鏑木清方は明治11(1878)年、東京の神田に生れて、下町に育っている。年譜を見ると、神田佐久間町、下谷二長町、京橋南紺屋町、築地1丁目、京橋木挽町と、7歳までの間にずいぶん転居している。年配の読者にはたまらなく懐しい町名だろう。下町といっても、いまの銀座である。
青年時代、家督を相続してからも、本郷湯島新花町、本郷湯島切通坂、そしてまた新花町、さらにまた京橋木挽町と、前に住んだ近辺に戻ったりしている。その後の本郷龍岡町、牛込矢来町となると10年、20年という単位の周期となって、67歳の戦時には、空襲を逃れて茅ヶ崎、さらに御殿場へと疎開している。戦後は鎌倉材木座に来て、文化勲章受章後にこの鎌倉雪ノ下の家を建て、それが最期の住居となった。