2022年7月7日(木)

個人美術館ものがたり

2009年9月17日

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赤瀬川原平 (あかせがわ・げんぺい)

画家、作家

1937年、神奈川県生まれ。60年代にネオ・ダダイズムなど前衛芸術運動に参加。80年「尾辻克彦」名の『父が消えた』で芥川賞を受賞。『散歩の学校』『昭和の玉手箱』『千利休 無言の前衛』など著書多数。

 この遍歴、少年時代は母が引越し好きだったことにもよるらしいが、このころの人々の生活は、いまと違って身軽だったということがあるのかもしれない。文明開化の時代とはいえ、いまよりはぐっと江戸に近いのだ。いまの時代はみんな用心深くなって、いちど手にした財産が逃げないように、家を建てて固めることが多いが、当時はそんなことを重苦しく感じていたようだ。そうとうな地位の人でも、借家が多い。

「教誨(きょうかい)」 明治38年(1905)年
聖書を手にした白人が家出娘をさとしている。背景は山手線巣鴨駅界隈の丘

 鏑木清方の父條野採菊(じょうのさいぎく)は、幕末の著名な戯作者で、明治の新聞人でもあった。「やまと新聞」の社長で、「東京日日新聞」(現毎日新聞)も創始している。清方16歳で「やまと新聞」の挿絵を描いているから、この環境の力は大きいだろう。

 いまは重要文化財に指定されている「三遊亭圓朝像」がある。赤い毛氈(もうせん)に座布団を敷き、両手に湯呑みをしっかり持って前方をじっと見つめている像で、この人物の冷えてたぎる体温が感じられるような、張りつめた描写が凄い。これはどこかの高座での姿かと思ったら、少年のころの清方の家で口演したときの光景で、使われている調度品はみんな家にある馴染みの物だという。咄家(はなしか)を自宅に呼んでやってもらうとは、凄い、贅沢だ、と思った。これはたしかに贅沢なことだが、じつはその創作咄を速記に採って「やまと新聞」に載せていたのだ。

 そんなことで鏑木家と圓朝は関わりが深い。清方が17歳で脚気を患っていたとき、転地療法がいいと聞いて、圓朝は創作咄の取材の長旅に清方を連れ出している。旅先で市井の人々と茶のみ話をしながら、宿でそれを記録する、そういう観察と創作の圓朝に随行しての行脚は、画家、文筆家となっていく清方にはずいぶんな栄養となったに違いない。

 清方は作家とは呼ばれないが、文集をたくさん出している。この美術館に再現されている画室は畳敷きで、絵具や筆の箱、和風のイーゼルなど見えるが、中央の座卓には原稿用紙と万年筆が置かれていた。絵具ではないことに怪訝な顔をしていると、この家に来てからは原稿用紙に向うことの方が多かったという。晩年は目を患い、視力が落ちたこともあるらしいが、文を綴ることにますます楽しみを感じていたらしい。

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