Wedge REPORT

2015年7月7日

»著者プロフィール
閉じる

中西 享 (なかにし・とおる)

経済ジャーナリスト

1948年岡山県生まれ。72年共同通信社に入社。88年から91年までニューヨーク特派員、経済分野を取材し、編集委員を経て2010年に退社。現在は経済ジャーナリスト。著書は「ジャパンマネーの奔流―ニューヨーク・東京・ロンドンの24時間」(1987年、ダイヤモンド社)、「日本買い 外資は何を狙っているか」(2005年、PHP研究所)など。

『4人組』が出発点

 1999年の4月に入学した1期生が大学受験した02年から合格者が急増、驚異的なのは、この輝かしいパフォーマンスがその後も継続していることで、数字を見れば一目瞭然だ。

大学合格者数
拡大画像表示

 この「奇跡」を先頭になってリードしたのが2代前の校長で現在、大谷大学教授の荒瀬克己氏(61)だ。堀川高校の教師(国語担当)をしていた1993年ころ、自分の子供もそろそろ高校に行く年代になりかけていた。その時に頭をよぎったのが「どんな学校なら自分の子供を行かせたくなるか」だった。

 当時、意気投合した40歳前後の教師が4人集まり、学校をどのように変えればそうなるか話し合いを重ね、職員会議内に委員会を作った。この改革が失敗したら「京都には住めなくなる」というくらいの思い詰めた気持ちだったという。

 だが中堅の教師だった4人の上には先輩格の教師が多く、「変えること」には強い抵抗があった。対策を練った『4人組』は、面白くない授業を変えるために授業時間50分を90分にすることを提案した。するとそれまで改革にあまり関心のなかった先輩教師も自分の授業内容にも影響が及ぶため目の色が変わり、校内で大議論になった。

 何とかまとめた改革案を市教委に持っていったところ却下されてしまった。しかし、やる気がない高校だとみられていた堀川高校に対する市教委の見方が変わり、学校改革で盛り上がっていた同校の動向が注目された。同じころ京都府教育委員会も府立高校の改革に動き出していたため、市教委としても対抗上、改革で早く実績を挙げたいという内部事情も働いた。

 95年に荒瀬氏が指導主事として市教委に赴任してみると、市教委も改革案を作っていた。この案はその後大きく変更されるが、堀川高校の改革を進める土台になる。市立高校の21世紀構想を検討する「京都市立高校21世紀構想委員会」が立ち上がり、荒瀬氏が答申案を書く役割を担い、その年の暮れに堀川高校に新校舎の建設資金の予算が付いた。

関連記事

新着記事

»もっと見る