2024年12月6日(金)

障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド

2015年8月25日

 

教員への夢 その第一歩


初瀬:盲学校卒業後は、早稲田大学に進学されますね。やはり教育の道を目指して?

初瀬勇輔さん。(過去記事参照、前編後編

河合: 僕の夢は教員になることでした。早稲田を選んだ理由は、盲学校が池袋に近い護国寺にあったことによります。自分の生活圏に近い大学を探したところ早稲田、立教、学習院、上智が候補にあがって、その中で教育学部があって、推薦があって、4年間同じキャンパスがいいと考えたら早稲田大学だったというわけです。入試に関しては点字が苦手だったので、推薦で受けたいと考えました。

初瀬:住み慣れた所に近い大学を探したということですね。ところで、授業はどうやって受けていたのですか?

河合:当時はパソコンがないから点字版というものを使っていました。カチャカチャ授業中ずっとやっていましたね。毎日授業には出席して3年生までに教職含めて単位はほぼ取り終えていました。だから4年生の時は楽なものでした。(笑)

初瀬:アトランタ大会出場は大学3年生ですよね。その一番忙しい時期に平行して練習するのは大変だったんじゃないですか?

河合: 大会そのものは大学の夏休み期間だったから、大変だなんて感覚はなくて、しっかり準備できました。メダルも金2、銀1、銅1が獲得できましたし、卒業時には総長から特別表彰を受けたりして、大学時代はかなり充実していたと思います。

 卒業後は浜松市内の母校の中学校に戻って、念願の教員になるのですが、僕がいた頃と何も変わっていなかったから、嬉しかったですよ。

初瀬:教員になるのが夢だったわけですから、母校の教壇に立った時は「やったぞっ!」という感じだったでしょうね。ところで、授業はどうやって教えたのですか。板書とかできないじゃないですか?

河合:そこはティームティーチング(TT)で、二人で授業を行っていました。その先生が板書して二人で補い合いながら進めていきます。授業の最初の5分くらいは導入で、直近のニュースを授業に関連するように話しをして、内容に関心を持たせてから入りました。

 テーマに沿って調べさせて、必要に応じて話し合い、発表させて、みんなから吸い上げたものをまとめる。そのあとで正しいデータなどを示して納得させる。そんな展開で多角的に物事を考えるようにして、授業を終えるようにしていました。

初瀬:目が不自由ですから、大変な職業だと思うのですが、生徒とのコミュニケーションで一番気を遣ったところはどんな点ですか?

河合一番大切なことは生徒の声を聞くということです。彼らにとっては、先生の目が見えないとか、金メダリストとか関係がないんです。自分のことを伸ばしてくれるとか、気にしてくれる先生かどうかが彼らの評価基準なので、そこに自分が応えられるかどうかだけです。近づき過ぎず遠過ぎず、今は理解してくれなくても、5年後に気づいてくれればいいと思って向き合っていました。

初瀬:生徒の声をよく聞くことと、生徒に多角的に物事を考えさせることですか。河合さんらしいですね。ところで、25歳でシドニー大会に出場して、金2、銀3を獲得されていますが、教員時代の練習はどのようにしていたのですか?

河合水泳部の顧問ですから、生徒たちといっしょに練習していました。目が見えないので移動するのが大変ですから、職場にプールがあるのはありがたかったです。もちろん顧問は僕ひとりじゃありませんが、ここでは指導者の経験をしました。しっかり泳がせて怪我をしないように注意すれば、それなりに子どもたちは伸びることがわかりました。

初瀬:その後、いったん早稲田大学大学院の教育学研究科に通うのですが、それは勉強もしたいし、アテネ大会に向けて練習もしたかったということですか?

河合:教員としての力を養うためです。それに何が正しいかをしっかり伝えられる教師を増やしたい。そのためにはいつか大学の先生になって教員養成をやりたいと思ったのです。それにアテネ大会に向けて練習がしたいという気持ちもありました。

初瀬:その当時、僕はアテネ大会で活躍する河合さんをはじめとした視覚障害の選手達をテレビで観て、「障害者なのによくやるなぁ」と思っていました。自分の目が悪くなったことと、障害を持っても活躍している人に対しての反発心があったのでしょうね。母親からは、「目が悪くても、こんなに頑張っている人たちもいるのよ」と言われて、余計に反発したことを憶えています。あの頃の僕は、まだ障害を受け入れられなかった時期でしたから。


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