2024年11月21日(木)

Wedge REPORT

2015年12月5日

世界一への挑戦

 「ラクロスで世界一になりたい」。その強い思いが、日本で初めての女子プロラクロス選手の誕生につながり、オーストラリアリーグへの移籍を実現させた。今年8年目となるオーストラリアでは、今までにリーグのMVP、州代表、州のMVPを獲得。昨シーズンはキャプテンとしてチームを率い、念願の初優勝も飾った。また、ロンドンオリンピック2012を前に開催されたヨーロッパ選抜チーム vs 世界選抜チームのエキシビジョンマッチでは世界選抜に選出され、オリンピック前のロンドンを盛り上げたこともある。

 数々の偉業を成し遂げてきた山田選手だが、彼女の目標はあくまでも世界一であり、全てはこの目標のための通過点に過ぎない。彼女が日本初のプロラクロッサーとなったのは2007年である。その2年前、女子ラクロス・ワールドカップ2005で日本代表は5位入賞を果たした。山田選手は、この大会で世界との差を痛感した。この敗北感が世界トップのオーストラリアでのプレーを目指すきっかけとなるのだが、この時にはまだ予想さえしていなかったチャレンジがオーストラリアで待ち受けていた。

日本で唯一のプロラクロス選手として、スポンサーの仕事は欠かせない。英会話、寝具、スポーツウェア、酒店など様々な業種の会社が山田幸代選手を応援している。帰国時には各スポンサーの撮影や取材に追われる(写真提供:hummel)

 それはオーストラリア代表への挑戦である。山田選手は、2013年のワールドカップを前に、再度日本代表で世界に挑むのか、はたまたオーストラリア代表を目指すのかの選択肢に迫られていた。2008年からオーストラリアでプレーしてきた山田選手は、日本人ながらオーストラリア代表になれる権利があった。しかし、その代表選考会に挑むと、代表候補で終わったとしても、今後選手として日の丸を背負うことはできなくなるという決まりがあった。一歩踏み出してしまうと、『やっぱり日本代表で』と後戻りがきかなくなる。日本でラクロスを始め、日本でラクロスを普及させたいと願い、活動してきた彼女にとって、それは簡単な選択ではなかった。

 彼女が口癖のように言う夢がある。「『子ども達が将来の夢はラクロス選手です』と言ってくれるようなスポーツにラクロスをしたいんです」。山田選手はその夢の実現のために世界一を目指している、とも言える。彼女は世界一の選手を目指し、カナダワールドカップ2013で優勝する自分自身をイメージした。

 「日本代表で世界を相手に善戦することよりも、日本人として、オーストラリア代表に選出され、世界一を目指すと決断しました」。しかし、トライアウトの最終選考で、『プレーは代表レベルだが、言葉の問題やその背景にある文化的な考え方、積極性に欠けている』という理由で、夢にまで見たオーストラリア代表になることはできなかった。

2017ロンドンワールドカップを目指して

 ちょうど2年前のインタビューで、山田選手は私にこう話してくれた。「次のワールドカップは2017年。私はその時34歳になっています。スポーツ選手としてはベテランですが、ラクロス選手って選手寿命が長いんですよね。オーストラリア代表で私と同じポジションに37歳の選手がいるんです。だから、4年後でもまだまだ代表入りできると思っています」。それから2年が経ったが、山田選手の気持ちは色褪せることなく、来年の12月まで続く代表選考会に挑んでいるところだ。

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 「夢を叶えるために、犠牲や努力、苦労は覚悟の上」だと語る山田選手は、今年3月に新しいパーソナルトレーナーについてもらい、ミールプランから体づくりを含めて、徹底的に戦える体に仕上げている。「シーズン当初、体重を落としすぎて試合中に飛ばされるくらいだった」というが、徐々に筋肉量が増えてきて、走れて動ける体になった。

 確かに以前よりも食事もトレーニングもストイックになり、追い込んでいるように思うが、この数年、山田選手の活躍を見てきた私にとって、犠牲にするというほどの変化ではないようにも感じていた。「今回代表に選ばれなかったら日本に戻る」と聞いた時に、『なるほど』と私は思った。山田選手は、大好きなラクロスを辞めるという大きな決意で、今回の代表選考会に臨んでいる。『山田さんにとってラクロスを辞めることほど大きな犠牲はないですよね』と聞くと、「そう思ってはなかったですが、確かにそうですね」と笑顔で答えてくれた。


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