2024年11月26日(火)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年10月21日

 下壮而君は東京大学の学生時代から理論家として、友人の間に認められていた。私の演習における討論や論文もそれを証するものであった。彼は学生時代、マルクスの経済理論、特に宇野理論の影響を深く受け、日本資本主義に対して批判的な見解を抱いていた。そういう姿勢から企業に就職する途を採らず、公務員試験を受け、優秀な成績で合格した時、私に進路について相談があった。私の演習は工業経済論であったし、日本経済との関連で言っても、通商産業省を選ぶのがよいのではないか、という問いであった。私は彼に農林省を奨めた。それは、日本資本主義の全体を見ながら、官僚が多少とも主導権をもって、経済のあり方を計画し、誘導しうるという点では、農林業がもっとも大きな可能性を持っており、下君の能力を発揮し得る処ではないかと考えたからである。彼は彼なりに考えた上であろうが、私の助言をいれて農林省に入った。

 彼がきわめて優秀な農林官僚であったことは、彼の同僚が口を揃えて語るところである。大学卒業後一一年後の一九七〇年には埼玉県の農政課長に出、的確な分析に基づいて農業振興計画を策定し、都市近郊農業としての県農業発展の礎を築いた。七四年には農林省構造改善局の管理課長として、土地改良法の改正を実現し、農業基盤の整備に尽力した。また七八年には国土庁に出て、土地利用調整課長として土地利用の基本計画を見直し、電算システムの導入に努めもした。そして八一年には食糧庁に戻り、受給課長さらに企画課長として、食管法の三〇年振りの大改正を行い、それを軌道に乗せるべく尽力しているその時、病魔の犯すところとなったのである。この簡単な経歴からも知られるように、下君は農林行政の中心を歩き、多くの仕事をし、農林水産省の内外から期待された人材であった。

 しかし、下君の本領はこのような官僚としての練達に止まるものではなかった。彼が仲々の理論家であることは学生時代から知っていたところであるが、卒業後一〇年程たった時、彼は突然、私に下条寿郎名儀の論文数篇を手渡し、卒業後友人たちと研究会を持ち執筆したものである旨を告げた。それは当時発行されていた『フェビアン研究』にのせられた「相対的安定期の世界市場」や『情況』にのせられた「現代資本主義論の基本視点」、「六〇年代におけるヨーロッパ資本主義」等であった。それらの論調は現代資本主義に対するきびしい姿勢で貫かれていた。これらの論稿を一読しただけで、私は下君が多忙な役人生活の傍らで、研究への情熱を失わず、広い視野で世界経済を考察し、分析している姿勢に深い感動を憶えた。

 その後の下君は前述したように役人としての重責を次々に負い、現実の農政と日本経済にふれ、その当面する問題解決の衝に当ったが、彼の研究への意欲が衰えることを知らなかったことは、本書を一見すれば明らかである。ここに収録された四篇は、一九七三年から八一年にわたって書かれ、彼のルーズリーフに書き留められたものである。その意味では本書は下君の未完の論文集であるが、その中心を流れているものは、彼が大学時代から追求してきた現代資本主義論である。以下その論旨を私なりに要約し、本書の構成を彼に代って記したいと思う。
(中略)

 こう見てくると下君がいかにスケールの大きな、理論的に鋭い役人であり、研究者であったかが理解されるであろう。本書はその下君が未完で残した遺稿集であるが、我々に多くのことを語りかけ、教えている。多くの人々に読まれることを願って止まない。

         一九八五年六月
                   下君の逝去満二年に当って

 

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