2024年6月14日(金)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年10月21日

 「成田空港問題で、国と反対派住民が話し合う円卓会議の運営委員長として両者の橋渡し役を務め、和解への道を開いた。東京女子大学長も務めたほか、社会保障制度審議会会長として、95年に介護保険制度導入を首相に勧告した。東大卒業後、満州製鉄に勤め、当時同僚だった作家の五味川純平氏が描いた小説『人間の条件』のモデルといわれた」(2003年2月22日、毎日新聞夕刊)

『激動の時代を生きて』
(隅谷三喜男著、岩波書店)

 びっくりしました。隅谷先生が昭和30年代の空前のベストセラー『人間の条件』のモデルだったとは。私は、引き込まれるように隅谷先生の自伝本『激動の時代を生きて』(岩波書店)を読みました。

 千葉の農漁村で生まれ育ち、関東大震災で家が焼け、東京に移住。大学では治安維持法違反で検挙。卒業後は社会の最底辺に入りたいとの気持ちで、半植民地の満州で労働者が多い会社だからと、昭和製鋼所という日本資本の製鉄所に入社。中国人社会の中に入って暮らそうと、親しくなった中国人同僚の家に居候もしています。終戦後、帰国し、旧知の先生をたどって、30歳で東京大学助手になった、とあります。相当の苦労人です。

 自伝本を読み進めると、終盤に、各紙が追悼記事で触れていた、成田空港問題との関わりがでてきます。ガンを抱えた体であったけれども、東京大学で深くかかわった、学生運動・東大闘争と裏腹の関係にあったのが成田空港問題。その成田問題に決着の見通しがつき、「ぜひに」と頼まれれば、無下に断ることはできかった、と述懐されています。

 いよいよ、成田問題決着という最終盤の記述を読んだ私は、さらにびっくりすることになります。そこには、こんなことが書かれていたからです。

天国からの「人の縁」

・・・こうして円卓会議は一二回、次の総括をもって成功裡に終った。
(中略)
  その時、円卓会議の結論を当局側の見解を代表して、「国としての深い反省に基づくもの」と語った亀井運輸大臣は立ち上がり、つかつかと反対同盟側に歩み寄り、石毛君らと握手した。石毛君らは後で「あの時は亀井さんに先を越された。我々も立ち上がって舞台の真ん中で握手するつもりだったのに」と語った。亀井運輸大臣は二四年前、機動隊員が三人殺された時、全国から集まっていた機動隊の隊長であった。反対同盟に怨みをもっていた。その亀井氏が成田問題の決着点でこうした役割を演じたことは記録しておくべきだと思う。
   ともあれ、これを以って成田空港問題に対する私の責任は解除された。関係者は敵も見方もなく祝杯をあげた。

――『激動の時代を生きて』(隅谷三喜男著、岩波書店)p227~228

 私は、無宗教論者ですが、不思議な気持ちに襲われました。下壮而君が天国から糸を引いて、下君の大学の恩師である隅谷先生と、下君が都立大泉高校で出会った亀井静香君を巡り合わせたような気がしたのです。

 下君と亀井君の出会いのもとは、当時の都立大泉高校校長の両角(もろずみ)英運先生が、広島の修道高校を放校された亀井君の中途編入を、校長面接で認めるという英断を下されたことです。かなり後ですが、運輸大臣になったとき、亀井君は東京都練馬区の両角先生の霊前にお線香を上げに行って、御礼を申し上げたそうです。


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