考え、足りないことをプラスに変えることが
夢につながる
6時間目は教室での授業。16社25名のメディア関係者が教室をぐるりと囲むと、児童からは「授業参観じゃん」との声があがるほど。スーツに着替えた秋山選手が教室に入り、6時間目がスタート。「みんな疲れてない?」と語りかけた秋山選手の次の質問は「野球を球場やテレビで見たことある人いるかな?」だった。手を挙げた児童は半分ほど。クラスで野球をしている子どもはゼロ。まずは、野球がどんなものかを知ってもらうためにも、2015年シーズンの秋山選手の活躍をビデオで確認。日本プロ野球史上最高記録となったシーズン最多の216安打を始め、攻守の好プレー集に、子どもたちからは拍手が起きた。
「今のが僕なんですよ。普段と随分違うって言われるんで。ああいう仕事をしています」と、すごい選手なんだ、と感じたばかりの子どもの心を今度はほぐして話は進む。「野球の話ばっかりするつもりはないんですけど、自分だったらどうかなって考えながら聞いてください」と黒板に野球を始めてからの気持ちの揺れ動きを夢曲線として書きながら話し始めた。
野球チームのコーチをしていた父親の影響で、小学1年生で野球を始めた秋山少年は、野球の楽しさを少しずつ感じて大きくなった。しかし、小学6年生の11月にお父さんがガンで亡くなってしまう。「その時、すごい気持ちが落ちて。野球をやりたいって思いがありながら、中学校でどうしようかな、と悩みました。それでも、中学で野球をやらせてもらえて。中学の野球部はとにかくきつい、苦しい部活でした。4時に起きて、電車で学校に行って。夜の7時くらいまで練習をしていました。『いつ辞めようかな』って思った時期もありましたが、父親がいなくなって、それでも野球をやらせてもらっていて。続けることが恩返しなんじゃないかな、と野球を続けました」
高校は神奈川県の横浜創学館高校に進学。3年夏には強豪校がひしめく神奈川県大会でノーシードながらベスト8に。他校に比べ、設備なども限られていたことがきっかけで、考えることを学んだという。「足りない中でどうするか、だと思うんです。人が苦しいと思ってることでも、どうせやるなら、楽しくならないかなって意識して。どうやって苦しいことを乗り越えようかな、と。プラス志向っていうんですが、考え方を前向きに、苦しいけど何か得られるんじゃ、と考える大事さを教わりました」
夢を実現した秋山選手の挫折
八戸大学を経て、2010年10月に埼玉西武ライオンズからドラフト指名を受けた秋山選手。子どもの時に思い描いていた『プロ野球選手』という夢が実現した。しかし、プロの世界は厳しかった。「ヒットが打てない、守備がうまくできないって苦しい時が続きました。活躍する選手との差は何なんだろう。何が自分には足りなくって、何をしないといけないんだろう、って考えさせられました」
「父親が残してくれたプロ野球選手という夢だったけど、そして、野球を続けさせてくれた母親のためにとやってきた野球だったけど、やっぱり野球が好きだという自分に気づきました。試合にも出られなかったこともある4年目(2014年シーズン)があって、大きくバッティングを変えました。例えて言うと、国語はできないから算数をやろうっていうくらい大きな変更でした。苦手なことを克服するよりも、得意なことを伸ばそうと考えたんです。それで昨年のヒット数がシーズン日本一になったんです。一つの考え方で人ってどういう風にも変われるんだな、とその時強く思いました」
秋山選手のプレーで大きく変わったのは、バッティングフォームである。上から捉えに行ってバットを振る感じから、グリップの位置を下げて、バットを寝かせるスイングを心がけた2015年シーズンは、点ではなく、線でボールを捉えられるようになった。さらに、打てなかった時やいい当たりでアウトになってしまった時も、それを引きずらず、気持ちの切り替えができるようになったという。
「考え方を変えて、なんとか成功した。とにかく我慢して、続けることの大事さを感じたというか。僕がみんなに伝えたいのは、継続と我慢と感謝。この3つを持って欲しい。父親がいなくなってから、いろんな人が助けてくれました。野球を教えてくれた人、生活のお世話をしてくれた人に感謝をして、苦しい時も歯を食いしばって続けてきました。勉強でも、『これ何のためなんだろう、何になるのかな』って気持ちがあっても、すぐに結果が出ることを求めないで。自分がやってきたことは、自分の人生につながっている。投げ出すんじゃなくって、発想を変えられるように。僕は特に両親や家族には感謝の気持ちを持ってやってきました。このことが、少しでもみんなの考え方にプラスになったらいいな、と思います」