中村の原動力は、「なんやコイツ」。この日以来、ホームランに強くこだわりを持つようになる。そのこだわりは、そのまま自身のホームラン哲学に通ずる。
「俺は全球ホームランを狙ってた。ホームランの打ち損ないがヒット。ヒットの延長線上がホームランという考え方は、俺にはなかった」
ホームランを打てば目立てる。そんな単純で純粋な欲求が、23年間グラウンドに立ち続けた源の一つである。
目立つことの追求。それはときに、グラウンド外にも及んだ。2002年、初めてFA権を獲得した際、世の中は中村の一挙手一投足に注目した。
メディアは毎日のように中村を追いかけ、自宅の周りには200人近い報道陣が詰めかけた。遠征先の東京で食事に出かけても、家族で旅行に出かけても、そこには必ず報道関係の人間がいた。
「当時はね、『まぁ、目立ってるならええか』くらいにしか思ってなかったから、記事のチェックや事実関係に誤りがあった場合の訂正はせんかった。でも、今思ったらちゃんとやっといたら良かったかな」としみじみ語る。
「会って話をすれば、わかってもらえる。ただ、家族には迷惑かけたな……ホンマに感謝してる」
乱高下した年棒 断った引退試合
輝かしい実績、様々な話題とともに、米国から帰ったのち、オリックス・バファローズに復帰した。自由契約となり、翌年には中日ドラゴンズで育成選手となるが、同年の日本シリーズではMVPに輝き日本一となる。その1年後にはFA宣言で東北楽天ゴールデンイーグルス入り。この間の年俸は、06年2億円から、07年400万円、シーズン途中で600万円となり、08年5000万円、09年、10年1億5000万円。ジェットコースターのような人生を駆け抜け、楽天での2年目、10年10月に戦力外通告を受ける。
「シーズンの終盤に肉離れしてね。その治療も良好で、来年に向けて練習しているときに、マネジャーに呼ばれた。直感で、クビやな、と思った」
本拠地球場の一室で、クビになった。現役続行を宣言するも、獲得を名乗り出る球団はついに現れなかった。そして、プロ野球選手としての収入は1億5000万円から、0円になった。