浪人生活が始まる。神戸の自宅近くにあるバッティングセンターで打ち込む日々。「バットだけは、相当振ってた」と、本人が語るように練習は怠らなかった。そんな中村のもとに5月22日、当時の横浜ベイスターズ球団社長である加地隆雄(故人)から電話がかかる。
「もう一回勝負ができる。これが、最後のチームになるかもしれない」
電話を切った後、静かに涙を流した。
横浜に移籍した11年は代打での出場が中心となったが、翌12年には8年ぶりにオールスターに出場しMVPを獲得。その翌年には2000本安打を達成。浪人時代を経験していることを考えると、その活躍は際立つ。横浜に来て4年目の14年、自身2度目の戦力外通告を受ける。
「引退するなら、引退試合を用意すると言われたけど、即答で断った。俺は、生涯現役やから」
中村は「勝負し続けていきたい」と取材中何度も〝勝負〟という言葉を口にした。思えば18歳からプロに入り、球場でも球場の外でも何かにつけて話題の最前線にいた中村にとって、勝負することは生きることそのものなのであろう。
だからこそ、23年の間に手首を5回、半月板、腰、肩、肘をそれぞれ1回ずつ手術し、痛み止めを打ち続け、時に車のアクセルを踏めないほどになりながらも、プレーし続けた。
「家族がね、ユニフォーム着てるのがパパだ、って言う。そら、ユニフォーム着んとあかんやろ」
昨年、高校野球指導資格を得た。現在経営する野球教室でも、中村は真剣勝負で子供達と向き合う。
「どんなことでもええ。俺は一生勝負し続ける。それが、生涯現役っていう意味や」
生涯現役。勝負し続けると言った中村の目は、バッターボックスとなんら変わりない迫力に満ちていた。
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