サックス先生が逝った。私にとっては、科学ジャーナリストとしての経歴のなかで最も影響を受けた「心の師」であった。いま、家族を喪ったときに勝るとも劣らない寂しさに打ちひしがれている。
共感に満ちた優しい語り口や、脳と心のはたらきを見極めようとする真摯な探究心、少年のような無垢な驚嘆。そういう”サックス節”で新たな物語がつむがれることは、もうないのか、と。
オリヴァー・サックス。1933年ロンドン生まれ。オックスフォード大学を卒業後、渡米。脳神経科医として診療をおこないながら、『レナードの朝』『妻を帽子とまちがえた男』など、「フィールドワーク」をふまえた情緒豊かで、かつ分析力に富んだ独自の医学ノンフィクションの数々を世に送り出した。
当欄でも近著の『見てしまう人びと』、『音楽嗜好症』をご紹介した。本書は、その生前最後の著作となった、初めての本格的自叙伝である。
「書くこと」の源泉
サックス先生のほぼ全ての著書を繰り返し読んでいたくせに、「オリヴァー」自身のことは知らなかった、と痛感した。「書くこと」の源泉はここにあったのか、と眼を見開かせられた。
それほどまでに、本書には、裸のオリヴァー・サックスの「走り続けた(原著タイトル:On the Move)人生(原著サブタイトル:A Life)」が赤裸々に語られている。
ウィットに富んだその口調が、「病気」や「障害」という言葉でくくられるさまざまな不具合や不都合や重荷を抱えた”患者たち”の人生(A Life)を語るときの口調ーー共感し、観察し、分析するーーと微塵も変わらないことに、まず驚嘆した。
同性愛、薬物依存、のめりこまずにいられない性質、兄の統合失調症、自らの相貌失認(「私は名前と顔を一致させるのがかなり不得意だが、元素は絶対に忘れない」)、片頭痛癖、左足の怪我、そして右目の黒色腫による失明、坐骨神経痛(痛みで「読むことも考えることも書くこともできなくなり、生まれてはじめて自殺を考えた」)、そして癌。