百年レストラン 「ひととき」より

2016年5月21日

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「進取の気性」に富む創業者一族

昭和初期の人工着色写真(絵はがき)。鉄筋5階建ての洋館が威容を誇っていた様が分かる

 意外なことに、京都の人々はハイカラ好き、洋食好きである。今でも、都道府県別一世帯当たりのパン消費量は、京都府が日本一。東京都の約1・32倍も食べている(平成26年の総務省統計局家計調査より)。創業者の小次郎氏をはじめ従業員の奮闘、八坂神社へと続く祇園商店街の入り口という好立地もあって、事業は順調に伸びていった。

ポタージュなどと供される「フィレビーフカツレツ」2,350円。赤身肉の旨味を堪能できる

 そこで小次郎氏は、西洋文化の先端都市だった上海に渡って視察を重ねたうえで、前述の建物を新築。鉄筋コンクリート五階建て、アールデコとスパニッシュ様式を取り入れた「ハイカラな館」で食べる洋食は、さぞかし京都市民に感動を与えたことだろう。

 しかし、日本は戦争の道を歩みだす。この窮地に際し、二代目の小四郎氏は、戦時中を配給食だけで営業。戦後は進駐軍相手のパブに指定されたことで、激動の時代をなんとか乗り切った。

 やがて敗戦国・日本でも自由が謳歌できるようになると、奥村一族の「進取の気性」が発揮されていく。

 小四郎氏は夏の間、屋上をビアガーデンとした。京都初の試みで、ビールを飲みながら鴨川を一望する心地良さが評判になった。

 後を継いだ三代目の忠氏は、昭和49年(1974)に一階をガラス張りのオープンカフェに改装。ミュンヘン五輪(昭和47年)を観戦に出かけた折に立ち寄ったパリで、感銘を受けたからだ。帰国後すぐに着手したあたりが、奥村一族らしいといえよう。この1階では月に数回の割合で、京都大学と京都市立芸術大学の学生による弦楽四重奏が演奏されている。

現在の外観。1階がガラス張りになったなどの変化はあるが、基本的な造りは90年前と変わらない 

 

 四代目の洋史さんは、外資系大手外食産業でアルバイトとして五年、社員として7年働いた後、家業の経営に携わるようになった。

 「私は完全なマニュアル人間でした。勤めていたのはアメリカ式の利益追求型で、クレーム対応さえマニュアル化されているような会社。そこで唯物論的な考えで働いていたんです。自分自身を脱却させるのが大変でした」

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