聖女アン・エレン
5月25日の午後5時頃、夕暮れが迫る曇り空の下、人口4000人足らずの町、オーズ(Eauze)に向かって深い森の中を急いでいた。朝から既に25km歩いてきた計算になるが、町まではまだ3km以上あるようだ。巡礼道は生活道路ではないので人通りがなく夏場のハイシーズン以外は閑散としている。
それゆえ巡礼者がナイフを持った追剥ぎに襲われる事件がしばしば発生している。道すがら巡礼宿の主人に夕暮れ時は危険だから早めに宿に到着するよう何度も注意を受けていた。若い女性が乱暴され金品を奪われる事件は巡礼道沿いで毎年繰り返されているという。昨年もアジア系女性が行方不明になった事件があったと聞いた。
心細く思って振り返ると森の径を一人の女性が歩いてくるのが見えた。かなり急いでいるようだ。少し休んで彼女が追いつくのを待った。近づいてくると20歳前後の細身の少女であった。
彼女は息を弾ませて「暗くなってきて危険なのであなたと一緒に行きたい」と言った。なんと彼女、アン・エレンはドイツに近い北フランスのシャンパーニュ=アルデンヌ地方の都市ランスから歩いてきたという。ランス大聖堂で有名な都市だ。彼女は既に1000km以上も踏破している。彼女の靴はボロボロであり、ザックもかなり汚れている。
彼女とおしゃべりしながら先を急いだ。アン・エレンはフランス人であるが、小学生のとき一家はドイツに引っ越して、それからランスに戻り高校を卒業したので英語よりはドイツ語のほうが得意という。彼女は高校卒業後に地元の役所で社会福祉関係の事務員をしてきた。思うところがあり退職してサンチアゴ巡礼をしている。
余談ながらシャンパーニュ地方はシャンペンの本家本元であるので「地元の人はやっぱりシャンペンが好きなの?」と興味本位の質問をしたら「好きというよりもシャンペンしか飲まないの。地元の人達が集まって飲んだり食べたりするときにシャンペン以外の飲み物を見たことがないわ」との驚きの回答であった。日本ではシャンペンというと高級なイメージであるが、いわゆる一般的なスパーリングワインはフランスでは価格的には産地名証明付きのワインよりはかなり割安である。ランスの地元の人々も高級ブランドのシャンペンは出荷して普通のグレードのシャンペンを伝統的に楽しんできたのであろうと思った。
彼女は敬虔なカトリック教徒であり平素から日曜礼拝にもできる限り出席しており、巡礼道では沿道にある教会で必ず“お祈り”をするのでどうしても毎日宿に到着するのが遅くなってしまうと説明した。あどけなく見える横顔や細身の体にも関わらず芯のしっかりとした強い精神力を秘めているようだ。