2024年4月19日(金)

WEDGE REPORT

2016年8月27日

記憶に留まる3つの安打

 眼目とする打撃には、3つの好例がある。3000本に到達した8月7日の1本でもなければ、ピート・ローズを超えた6月15日の1本でもない。まずは、ファンの記憶をかすめもしないであろう一打から。

 08年4月14日、野茂英雄が加入したロイヤルズをシアトルに迎え2連戦が組まれた初戦でのこと。好投手ザック・グリンキー(現ダイヤモンドバックス)から打ったライト前へのポテンヒットである。幸運な当たりに見えたこの打球には、時間をかけて涵養してきたイチロー独自の感覚が凝縮されていた。

 捉えたのは右肘付近にくる伸びのある148キロの速球。どんな技術を持ってしても、バットの根元でしかコンタクトすることしかできない高さだったが、打球は突っ込んでくる右翼手をあざ笑うかのように、ポトリと芝に落ちた。会心ではないこの一打に、イチローの講釈が冴えわたった。

 「僕はそういう(力で押し込む)ヒットだと思ってないからね。だから、体の動きやバットの動きによってそこに落ちるようになっているというか、そういう動きができないと多分、あそこには落ちないっていうことでしょうね。技術というわけではない。偶然にヒットが出なきゃいけないうちの一つの例だろうね。偶然っていうか、必然の中の偶然っていうか。そういう感覚」

 難易度の高いゾーンの球はそうそう意図してヒットエリアに落せるものではない。しかし、対応できるよう覚え込んだ体の反応を駆使して振りきると、それなりの確率で野手のいない場所へと落下する。「必然と偶然」という、パラドクシカルな感覚が生むヒットは、その饒舌さから、技術の範疇ではないにしても、安打産出には不可欠なスキルと同義に等しいと言っても穿ち過ぎではあるまい。

 それにしても、あの球をヒットにされては、グリンキーの落胆度も窺い知れる。

 これも08年だった。4月20日のエンゼルス戦でイチローはその年初の三塁打を放つ。一塁に出ていた走者が二塁盗塁を試みた直後のヒットで、捉えたのはチェンジアップ。体を泳がされることなく振り切った一打だったことから、試合後の囲みでは「狙っていたのか」の問いかけがあった。これにイチローは敏感に反応する。

 「変化球狙いじゃない。余計なことを考えたんだと思う。で、遅いの(チェンジアップ)がきたから(タイミングが)合ったのかも知れない。普通よりも0コンマ何秒か考える瞬間が(頭に)入ってきたので」

 “余計なこと”――。イチローはこう補足している。

 「ランナーが走ったのがわかった。それを(目で)確認して、じゃどうするかって考えた」

 つまり、一塁走者が試みたのは単独盗塁。サインではなかったため、意図的に空振りをして捕手の送球動作を少しでも送らせるか、それとも強打に出るかを選択しなければならなかった。それを決定するまでの“ミクロの時間”が体の動きを止める溜めを生み、低めに落ちる129キロのチェンジアップを泳がずに待てたというのだ。不測の状況を逆手に利用したことで、あたかも狙いすましていたような動きに見えたのである。息をもつけない瞬間の世界をまるで静止画像で凝視するような描写はイチローならではであった。

 そして、3つ目。これは多くのファンの記憶に残る一打であろう。

 09年9月18日。ヤンキースのマリアノ・リベラから本拠地の右翼スタンドにサヨナラ2ランを打ち込んだ。生還後のダグアウトから地元ファンのカーテンコールに応えたイチローは、会見でこう話した。

 「厄介なピッチャーとして必ず名前が出てくる。だってどの球がどのコースにきても、簡単な球にはならないピッチャーってそうはいないから。なかなか忘れないでしょう」

 仕留めたのはリベラの決め球、カットボール。内角へ食い込むカッターは引っ張れば勢いのないゴロかまたはバットをへし折られるのが関の山。過去にはその難球に可能性を求めて左方向を狙うアプローチも多々見られたが、この日は違った。躊躇なく引っ張ったのだ。イチローは試合を決める打撃に「単純に気持ちいいから分析はしていない」と言葉少なに、記者との囲みをお開きとした。


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