04年の暮れも押し迫った12月30日。神戸港を見下ろす瀟洒なホテルの一室で、イチローは快挙達成までの道のりを振り返った。その中で、これまでとは違った意識でその年のシーズンに臨んだことが明らかになる。
「これまで僕はヒットに必然的になるような当たりがヒットになるものだと思っていた。でも、それだけでは増えない。限界があるんです」
こう切り出すと、話はその年の開幕戦の第一打席へとさかのぼった。
4月6日、シアトルでのエンゼルスとの開幕戦だった。マウンドにはイチローと同じ42歳で、今も現役で活躍するバートロ・コローン(現メッツ)がいた。1回裏の第1打席でイチローは1ボールからの2球目、内角低め155キロの速球を打ちに出た。剛腕で鳴らすコローンの球威に押された打球は詰まり、遊撃後方にポトリと落ちる当たりとなったが、この一打に、大記録へと邁進するある種の手応を感じ取っていたのである。
「見逃せばボールだったかもしれない球。でも、ステップの位置が変わったことによってヒットにできたもの。踏み込んだ時の(右)足の位置は気持ちが入っていくとどうしても球に向かっていこうとする。それがあまりにも強すぎてバットで捉える時には苦しくなってしまっていたということがあった」
03年オフ、イチローは右足のステップ修正に取り組み、これまでバットで捉えることが難しいと感じていたゾーンの球を、開幕戦の第一打席で仕留めたのだった。「時間をかけて新しい形の癖をつけ体に覚えさせた」とうなずくイチローが、言葉を継いだ。
「だからあれは決して狙い済ましたヒットではない。でも、自分がやろうとしていることが間違っていないはずだという意識を持った記憶がある」
腐心の配球と被安打率が低いゾーンで攻めてくる投手たちから、1本でも多くのヒットを出すための思索は意識改革へと進み、オフの取り組みは翌年のシーズン最初の詰まった打球に答えを出したのである。
符節を合わせる打撃の真髄
過去の打撃フォームを映像や写真で見ると、イチローは毎年のようにマイナーチェンジを施している。打率3割5分1厘を残し01年以来のシルバースラッガー賞を受賞した07年のように、両膝の内側が合わさるほどに股を締めて立つ構えなど、誰の目にも明らかな変化もあった。右足の上げ方やバットの立て方、そしてグリップの位置などの小さな変化をほぼ毎年のように施している。しかし、これらはどれも感覚的なものであって、イチローの打撃を本質的に変えているものではない。では、その本質とはなにか――。
今年6月、大リーグの最多安打記録保持者ピート・ローズ氏の4256本をイチローが日米合算で抜いたことから、二人の比較で周囲は騒がしくなった。しかし、イチローの打撃を語るとき、引き合いに出されるべき打者はロッド・カル―氏(70)をおいて他にはいない、というのが私見だ。ローズ氏の活躍と時を同じくして、カル―氏はアメリカン・リーグ一筋で19年の現役生活を送り、7度の首位打者と、15年連続打率3割を記録。かつての巧打者は、右投げ左打ちでイチローと背格好も似ている。そして、打撃にも共通の理論を持つ。
01年の春、親友だった時のルー・ピネラ監督から「ロッドを彷彿させる打者が日本からきたよ」と告げられ、カル―氏はアリゾナのマリナーズキャンプ地まで足を運んでいる。当時、第一印象を聞くと、「内角球を左方向へ打ち返す姿に自分を重ねた」。この言葉はずっと私の心の奥底に残っていた。それから10年後、イチローが10度目の200安打を成し遂げたときには「ホームベースから一塁線と三塁線の90度を意識する広角打法は自分が実践していたこと。足もあり、ずっと楽しみにしてきた」と嬉しそうに語っていた。
そして、3000本まで残り10本とした7月某日だった。
昨秋に心臓発作に見舞われ、移植手術を待つ身となっていたカル―氏に、医師から許可をもらい、電話で話を聞くことができた。
「私の持論、“腕はできるだけ後ろに長く保て”と重なる。イチローはバットを振るときに上体が微かに前へ動くが、見事にバランスを保ち、バットを握る手は最後まで体の後ろへ残っている。それが秀逸だ。なぜかと言えば、手が体の後ろにあればバットの操作が利き、ボールに当てる可能性が生まれるからだ。バットを振るということは“腕を使う”ということ。イチローはこの点で『バットを操るアーチスト』と言える。私はイチローのファンだ」
ゆっくりと話す声は終始はずんでいた。その耳に響くカル―氏の論を咀嚼していると、以前、イチローが発したこんな言葉がよぎった――。
「手を出すのは最後。これはやっぱ僕のバッティングを象徴している。手を出さないからヒットが出るということじゃないかな」
同じタイプの打者という括りを超越して、符節を合わせる二人の理論には安打を生む打撃の真髄が宿っている気がした。