今回は作家の泉秀樹氏に取材を試みた。産経新聞記者を経て、作家になり、50年以上にわたって小説や歴史上の人物の評伝などを書き続けてきた。
現在は「J:COM湘南」で放送される歴史ドキュメンタリーの番組『歴史を歩く』の原作とナビゲーターも担当している。神奈川県を中心に、日本各地の歴史の舞台になった現場を元新聞記者らしく、訪ね歩く。そこで起こった事件の隠されたエピソードを、独自の視点でわかりやすく解説・分析することで、ロングセラーの高視聴率番組となっている。
Webサイト『NEC Wisdom』では毎月、戦国の人物評伝『乱世を生きぬく智恵』を書き下ろし、アクセス数1位の人気連載となっている。
これらの経験をもとに、「使えない部下・使えない上司」について語っていただいた。
信長の部下はハイリスク・ハイリターン?
織田信長はやる気のある部下からすると「いい上司」だったのでしょうね。
ハイリスク・ハイリターンなのだと思います。
明智光秀は、その象徴です。比叡山延暦寺の焼き討ちのときには、光秀を高く評価し、坂本城までつくらせたのですが、もともと、光秀のことを好きではなかったのでしょう。光秀が合戦の後で「我々も苦労をしました」と言うと、「お前は苦労などしていない!」と怒鳴り、殴ったり蹴ったりこともあるそうです。信長からすると「使えない部下」だったのかもしれませんね。
信長は、独創的な考えの持ち主でした。光秀のような旧体制にとらわれた保守的な考え方、平凡な発想の部下をよくは思っていなかったのだと思います。武田信玄や上杉謙信など多くの大名が自分の地盤を守り、そこから離れようとしなかったのに対し、信長は淸洲、小牧、稲葉山(岐阜)、安土へと城(本拠地)を移し、領土を広げていきました。その発想は斬新で、信長のまさにオリジナリティーです。先見性や洞察力があり、スケールのおおきな天才だったのでしょうね。
かわいがった秀吉には、そんな先取りの精神があると見込んでいたのだと思います。秀吉の朝鮮出兵は、信長の考えでもあるのです。信長は日本に来ていた宣教師と会い、スペインなどヨーロッパの政治情勢を聞いていました。やがて、外国の軍隊が日本に来るかもしれないと察知していたのだと思います。俺も天下を取ったら、軍備を強化し、朝鮮半島などへ攻め込もうと考えていたのでしょう。秀吉は、それを模倣して忠実に実行したともいえます。