空気、風、光、海、みどり、木造洋館、坂道、人びとの気質――
第二の故郷のように長崎の町と親しみ、画材とした画家がいました。
芸術家と土地との幸せな邂逅が感じられる美術館です。
野口彌太郎の絵は、ざっくばらんな線に味わいがある。いや、味わいという前に、見ているこちらの気が緩むのだ。気が緩んだところで、味わう感覚が出ていける。固い線で緊張していると、こちらの感覚も閉じこもって出ていけない。
ざっくばらんな線の絵を、フォービズムといった時代があった。19世紀に印象派の絵が出てきて、そのさらに先のところでフォービズムというのがあらわれた。マチスやドランやヴラマンクなど。その当時はざっくばらんな線とは見られず、乱暴な線と見られて「野獣派」と名づけられた。何ごとも最初はびっくりされる。
もっと昔の絵はつるつる描写の固い絵だ。その時代の絵は、そもそも味わうというより敬うものだったのだ。その固い絵をはじめて柔らかくしたのが印象派の画家たちで、そこからだんだん線がざっくばらんになって、線だけでなく色もざっくばらんで、それがしかし当初は乱暴と思われたわけである。
日本でのそういう絵は、日本的フォーヴと呼ばれる。この場合はもう乱暴とは違う。印象派や元祖フォービズムというのは、ヨーロッパの絵画理念から出てきたようなところもあるが、日本的フォーヴというのは、何となくそのスタイルが性に合ったというものだろう。だから乱暴とは違い、ややくだけて、ざっくばらんといえるわけである。
野口彌太郎の絵でまず感じるのは、そのざっくばらんな線だ。太めの筆で、ひゅん、ひゅんと泳ぐように描いている。目の前のものをきっちり型通りに描写するのではなく、目の前の空気、目の前の雰囲気をすくい取ろうとしているようだ。
絵具も厚塗りはしていない。油絵具を油で薄く溶いたのを「おつゆ」というが、そのおつゆを含ませた筆先でひゅん、ひゅんと描いている。それを「油絵による南画」と評した人もいる。日本には毛筆の文化がある。書との繋がりもあると思うが、禅画というのも、あれはざっくばらんな表現だ。テーマは難解であるとしても、筆の動きはざっくばらんだ。