大和市の姉の家には夜中の12時頃についた。途中、何度かコンビニに立ち寄ったが食糧はほとんど売り切れていたために、飲まず食わずの道中だった。乳児のミルクは、避難する際にカセットコンロと鍋を持ち出していたのでなんとか作ることができた。
「いま思い出しても、テレビドラマかマンガの世界みたいだったな。四ツ倉の青年の家は水道が出なかったからトイレがひどかった。流れなくても、みんなやっちゃうんだよ。一泊させてもらって、翌朝、白いおにぎりをひとつとタクアンをふた切れくらいもらったかな。それから大和に着くまで飲まず食わずだったから、大和に着いて温かい食事を出してもらったときは、本当にほっとしたよ」
川内村方面に避難した人の中には、7〜8カ所も避難所を巡り歩いた人もいるというから、Mさん一家の判断は結果的に正しかったということになるだろうか。
鬱状態からの復活
約2週間大和の姉の家で世話になって、Mさんたちは新潟県の長岡市に移動することになる。長男の会社の事業所が長岡市の隣の柏崎市にあり、長男がそこで働くことになったからだ。次男は、とりあえず会社が用意してくれた住宅に入れることになったから、長女の家族四人と一緒に長岡へ向かった。
長岡では、最初の3カ月は民間のアパートを借りて、その後、県営の雇用促進住宅に入居した。ここは、すでに取り壊しの決まっていた老朽アパートだったが、エアコンやガス器具を整備した上で、震災の避難者のために提供されることになった。
Mさんは10万円の支度金をもらい、赤十字の6点セット(冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電気ポット、炊飯器、掃除機)を提供されて、本格的な避難生活を開始することになった。湿気の多い雪国の冬は不快だったが、向かいの部屋に長女の一家が入ったから、孫の顔を見られるのが慰めになったという。
「人数分の毛布に食器類、後はラーメンなんかの乾物も貰ったかな。半端なくありがたかったよね」
雇用促進住宅の間取りは4畳半、6畳、6畳、にリビングが10畳あったから3人で暮らすには充分過ぎる広さだった。しかし、大和に避難してからずっと、Mさんは気分がすぐれなかった。いや、すぐれなかったどころか、ほとんど鬱状態だった。Mさんの妻が言う。
「大和の時は2週間ほとんど寝た切りで、ぜんぜん起きてこないんだもの。お姉さんから病院行けって叱られてたよねぇ。長岡でも、窓を開けては『あー帰りてー、帰りてー』って溜息つくばっかりで、部屋から一歩も出なくてね」
Mさんはいったいどんな気持ちだったのだろうか。
「俺的には、大和からすぐ富岡に帰りたかったわけ。でも帰らんねぇから、脱力感っていうのかな、何も考えられなくなってしまったんだよ」
転機になったのは、長岡の雇用促進住宅で南相馬からの避難者に声を掛けられたことだった。カラオケのある温泉施設に行こうと誘われたのだ。
「アパートの外で車洗ってた人から、おんちゃん歌好き? って声かけられて、ああ歌は好きだよって言ったら、明日カラオケ行くべって誘われて、あれで俺は復活したんだ。もう少し生きられっかなーと思ったんだよ」
長岡には200円払えば一日過ごせる公営の温泉施設が数か所あって、そこにはカラオケルームも併設されている。同じ福島の避難者と一緒に温泉に入り、心ゆくまで歌を歌うことによってMさんはようやく生気を取り戻したのだ。
地元長岡の利用者から、「避難の人はお金があっていいねぇ」と嫌味を言われたり、「避難者にカラオケを歌わせるな」と怒鳴り込んでくる人がいたりで嫌な思いもいくつかしたが、この温泉施設のおかげでMさんは約3年間にも及んだ避難生活を、なんとか乗り切ることができたという。
それにしても2日か3日、ちょっと避難するつもりで富岡の家を出て、そのまま3年間も避難し続けることになるとは……。Mさんはまさに、テレビドラマかマンガを見ているような気分だっただろう。