自然の中の美にひかれる
ワシントンDCといえば、ホワイトハウスに象徴されるアメリカの政治の中心。機能的で人工的で威圧的な印象を持ってしまうが、アランは谷中に似た雰囲気があったという。
「ニューヨークのように超高層ビルなどないし、見晴らしもいい。森の中に家がある感じで、近所づきあいも深い。裏庭には松、桜、つつじ、牡丹、竹も菊もありましたよ。だから谷中は心が落ち着くんです」
そんな環境で、幼い頃から絵を描くのが大好きだったアランは、家の裏の森に入っては花や木や草の絵を描いていた。アラン4歳と記された作品は、雑草の絵だ。8歳の頃には画家になりたいという明確な夢を抱き、しばしば絵画コンクールで入賞する絵の上手な少年は、14歳からは舞台背景や肖像画などを頼まれて描くようになっていた。すでに注文制作の芽はここで発していたことになる。
「でも、高校の頃から、自分にとって何よりも美しいと感じるのは自然や植物で、その美しさを表現するためにひたすら腕を磨くことを考えるようになりました」
画家として描きたいものははっきりしていた。が、そこに2つのものが立ちはだかった。1つは父親の大反対。もう1つは油絵の具による表現の限界。
弁護士だった父は、画家になるというアランの希望に真っ向から反対した。
「白か黒かすべてを明確に分析するタイプで、画家という不安定な仕事では家族を養えない、そういうものは職業ではなく趣味でしょと言われました」
どっちも折れない息子と孫の言い分を祖母がとりなして、父が出した条件は、競争率50倍の美術系の名門カーネギーメロン大学に合格すれば許すというものだった。ストレスで描く絵が歪むほどの受験期を経て、アランは難関突破を果たした。
しかし、そんな思いで入学した大学は、アランにとって新たなストレスのもとになっていった。
「大学で自分は成長できると期待していたんですが……。当時はモダニズムでなければアートではないという強い流れがありました。常に新しいものでなければいけない。歴史、文化、伝統、信仰とかすべてを否定するような価値観を、僕はどうしても受け入れられませんでした」
ポップアートの旗手として一世を風靡したアンディ・ウォーホルが、同じカーネギーメロン大学の先輩だったこともあり、学内ではモダニズムへの傾倒がとりわけ強かったのだろう。素直にただ植物の美しさや力強さを表現したいアランにとって、そこは居心地のいい場所ではなかったはずだ。
そんなつらい状況の中、アランはどうしたら自分の求める表現ができるのか、ひたすら画材の改良に黙々と取り組んでいた。