「自分が描きたい美しい植物は、油絵の具では枝の線や葉脈などが表現できない。絵の具を自分で作ろうと、いろいろな実験を重ねました」
そしてついに、ウサギの膠(にかわ)と化学顔料で求めるものに近い絵の具を作り出し、公募展に出品した。
「自分では大発明のつもりだったし、地元の新聞に『新画材を開発したアラン・ウエスト』という記事も載って、やった! これだ! って思っていたら、絵を見に来た人が『日本ではずっと昔から似た技法を使っているよ』って。えーっ! 昔から使ってるの? びっくりしました」
もしかしたら、求めてやまない自分の表現が可能になる画材が見つかるかもしれない。その一心が、ワシントンDCからはるかに遠い日本へとアランを誘った。
当時は、フジヤマ、ゲイシャにも興味がなかったし、大気汚染がひどいらしいというのが日本に関する唯一のイメージ。だから日本に来て最初に感じたのは、思ったより空気がきれいだなということだったという。日本のことはまだ何も知らなくても、求めるものは明確。そして、天然岩絵の具とそれを定着させるための膠との出会いが、思ってもいなかった日本への移住という決断へと導くことになったのである。
「鹿の膠は透明で、岩絵の具の美しい色がそのまま画面に載る。それに自分が使ったウサギの膠のような臭いもない。この画材なら表現できる。画材の呪縛、制限から解放されたことは、何にも代えがたい喜びであり快感でした」
同時にこの画材で描かれた日本画にも当然出会うことになる。スミソニアン・アメリカ美術館のボランティアとして世界の美術品のスライド整理をしていた頃に日本画も目にしていたが、すでに失われた過去の遺物だと思っていた。
知ってしまった。見てしまった。もう触りだけを理解してアメリカに帰ることはむずかしいとその時に感じたという。一度帰国し再び来日した時には、日本画を本格的に学ぶために東京藝大を目指し、日本で画家として生きることを決めていた。
日本で見出した表現世界
画家を職業として認めなかった父が設定した高いハードルを飛び越えたアランは、次は日本移住というさらに高いハードルも自ら飛び越えた。重い決断だったと想像できる。
「僕にとって自分が自由に表現できる将来を、この日本で見つけたのですから」
迷う余地などないではないかと、逆に問いかけるような答えが返ってきた。そして日本で、アランの世界は屏風絵、襖絵、掛け軸など、額の中から飛び出して、大きく花開いている。