2024年4月14日(日)

ひととき特集

2010年12月25日

 いきなり炸裂する西山史観。神仏判然令(俗にいう神仏分離令)の布告は、王政復古の大号令にもとづく神々の統括システムのスタートだった。維新政府は、〈国家的宗教〉を仕立てたかったのだ。

 「だから、神仏判然令は神社に対して出されたのであって、内容もシンプルです。神社にお坊さんがいたらだめ、ご神体が仏像ではだめ、神さまを八幡大菩薩のような仏教用語で呼んではだめ。それだけです。お寺はそのままでよかったんです」

 神社から仏教色を駆逐しようという政策を、これからは寺ではなく神社が手厚く護られるとよんだ多くの僧たちは、時流にのって転身を企て、神官になりたいと申し出た。永久寺ももぬけの殻となり、境内はゴーストタウン化したまでのことだと西山さんは指摘する。

内山永久寺跡に掲示されている江戸期の『和州内山永久寺之図』。現地に立つと、これだけの大伽藍が消え失せたことに衝撃を感じる

 「永久寺と興福寺は廃仏毀釈で大きな被害を受けたお寺の代表みたいに言われますが、そうではありません。藤原家出身の身分の高いお坊さんがさっさと寺を出て神社へ移っただけのこと。お堂も仏像も可能な限り大切にされています。だから興福寺の阿修羅像も残っているんです。本当の廃仏なら何も残っていませんよ」

 廃仏毀釈という由々しき事態は、限られた場所でしかみられなかったというのだ。

 「たとえば勤皇思想のつよいところ、有力な神道学者や国学者がいるところ、そして佐渡や隠岐といった遠く離れた場所──。大和では、南の吉野や十津川などを除いて廃仏毀釈はおきていないんですよ」  なるほど。あらためて永久寺の跡地を見わたせば、巧みに立ち回った人々のただならぬ気配が、漂っているような、いないような……。

古刹に残る習合行事

 内山永久寺の跡地から〈山の辺の道〉を南下して、次に訪ねるのは長岳寺〔ちょうがくじ〕。近くに、崇神〔すじん〕天皇陵のこんもりした森が見えている。

 釜ノ口と呼ばれるあたりに位置する長岳寺は天長元(824)年の創建で、盛時は僧兵(衆徒)300名、塔頭〔たっちゅう〕は48カ坊を数えた、高野山真言宗の古刹だ。

 住職の北川慈照〔じしょう〕さんが、庫裏〔くり〕(唯一残る塔頭、旧地蔵院)に迎えてくれた。

天明3(1783)年再建の長岳寺本堂に祀られる本尊の阿弥陀三尊(重要文化財)は仁平(にんぺい)元(1151)年造立、玉眼(ガラスや水晶製の眼)を使用した日本最古の仏像として名高い

 「伝承によりますと、弘法大師・空海さまが大和〔おおやまと〕神社の神宮寺として興したそうです。いまでも大和神社の例祭、鉦〔かね〕をチャンチャンと鳴らして歩く〈ちゃんちゃん祭り〉には深くかかわっております。わたしどもの寺は、鎮守が牛頭〔ごず〕天王でございます。祇園さんですね。それにまつわる行事が毎年1月10日の節会〔せちえ〕。これは奇祭といいますか、いわゆる〈もがり(古代の葬儀儀礼)〉のような儀式です。檀家の皆さんが大縄を編んで山門にかけ、椎の枝葉で〈お仮屋〔かりや〕〉をつくります。牛頭天王は疫病神なので、1年にいちど慰撫するわけです」


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