2024年12月10日(火)

ひととき特集

2010年12月25日

明治維新に際して布告された神仏分離令は、
いにしえから培われてきた日本人の宗教観を覆すものでした。
そのとき失われたもの、それでも残ったものから古来の信仰を体感するべく、
奈良国立博物館学芸部長の西山厚さんとともに、大和の古道を歩いてみました。

奈良に廃仏毀釈はなかった

 道は、人間の営みの産物だ。大和の〈山の辺の道〉は、7世紀後半から8世紀にかけての律令国家が整えた官道で、大和盆地を囲む山々の東麓を南北に走る、日本最古の産業道路といわれている。いまでも、桜井線(万葉まほろば線)の天理駅(天理市)あたりから桜井駅(桜井市)あたりまでは、古代の道筋をたどることができる。

内山永久寺跡を解説する西山厚さん。指し示す方向に伽藍が広がっていた

 大和には信仰の祖型があり、〈山の辺の道〉の道すがら、きっと神と仏の習合をとどめる事物がみてとれるはず。奈良国立博物館学芸部長・西山厚さんにご同行いただき、まず内山永久寺〔うちやまえいきゅうじ〕跡を訪ねてみた。

 若き芭蕉(宗房)が〈うち山や外様〔とざま〕しらずの花盛〉と詠んだ真言宗の大寺院はとうに、影も形もとどめていない。三方を木立に囲まれた広大な境内の跡地に、池だけがそのまま水をたたえているが、あとは田畑と木立とビニールハウス。ただしんと静まり返るばかり。

 永久年間(1113~18年)に創建された永久寺には50をこえる堂塔があり、たくさんの僧がいたそうだ。草むらに立てられた小さな案内板には、〈石上〔いそのかみ〕神宮の神宮寺〉〈廃仏毀釈〔はいぶつきしゃく〕で廃寺〉などと記されている。

明治時代に内山永久寺の僧が多数神官となったという石上神宮の拝殿

 ここから800メートルほどのところ、布留〔ふる〕山のふもとに鎮座する石上神宮は、刀剣の霊威を布都御魂大神〔ふつのみたまのおおかみ〕と仰ぎ、原初の佇まいを残す、日本最古の神社のひとつだ。

 「永久寺が廃寺となったのは廃仏毀釈のためではありません。上級のお坊さんが石上神宮へ移り、ほかの人たちも寺を出てしまったからです。やがて建物は競売にかけられますが、買い手がなく、更地にして農地として有効活用されただけ。仏像や仏画などは別の場所で保管されました」


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