明治維新に際して布告された神仏分離令は、
いにしえから培われてきた日本人の宗教観を覆すものでした。
そのとき失われたもの、それでも残ったものから古来の信仰を体感するべく、
奈良国立博物館学芸部長の西山厚さんとともに、大和の古道を歩いてみました。
奈良に廃仏毀釈はなかった
道は、人間の営みの産物だ。大和の〈山の辺の道〉は、7世紀後半から8世紀にかけての律令国家が整えた官道で、大和盆地を囲む山々の東麓を南北に走る、日本最古の産業道路といわれている。いまでも、桜井線(万葉まほろば線)の天理駅(天理市)あたりから桜井駅(桜井市)あたりまでは、古代の道筋をたどることができる。
大和には信仰の祖型があり、〈山の辺の道〉の道すがら、きっと神と仏の習合をとどめる事物がみてとれるはず。奈良国立博物館学芸部長・西山厚さんにご同行いただき、まず内山永久寺〔うちやまえいきゅうじ〕跡を訪ねてみた。
若き芭蕉(宗房)が〈うち山や外様〔とざま〕しらずの花盛〉と詠んだ真言宗の大寺院はとうに、影も形もとどめていない。三方を木立に囲まれた広大な境内の跡地に、池だけがそのまま水をたたえているが、あとは田畑と木立とビニールハウス。ただしんと静まり返るばかり。
永久年間(1113~18年)に創建された永久寺には50をこえる堂塔があり、たくさんの僧がいたそうだ。草むらに立てられた小さな案内板には、〈石上〔いそのかみ〕神宮の神宮寺〉〈廃仏毀釈〔はいぶつきしゃく〕で廃寺〉などと記されている。
ここから800メートルほどのところ、布留〔ふる〕山のふもとに鎮座する石上神宮は、刀剣の霊威を布都御魂大神〔ふつのみたまのおおかみ〕と仰ぎ、原初の佇まいを残す、日本最古の神社のひとつだ。
「永久寺が廃寺となったのは廃仏毀釈のためではありません。上級のお坊さんが石上神宮へ移り、ほかの人たちも寺を出てしまったからです。やがて建物は競売にかけられますが、買い手がなく、更地にして農地として有効活用されただけ。仏像や仏画などは別の場所で保管されました」